花火の歴史は古く、原型は中国の狼煙といわれています。狼煙とは煙をつかった通信手段ですがこの方法が発展していったのではないかといわれています。中国は火薬を今から1500年以上前から使用していたといわれています。

花火が行われた日本で最も古い記録が1447年5月5日だそうです。
浄華院における法事の後に境内にて行われたと公家の日記に記されています。

 

 

江戸の街の花火

 

江戸時代になると火薬を使うこともなくなり、別の使い道として花火屋が増えていきます。そんな花火は鼠花火や狼煙花火があり、江戸では大変人気でしたが大きな問題として江戸の街の大敵である火を使うものでした。

そのため花火による火事などもあることから1648年、三代将軍徳川家光の時代には江戸での禁止令が出されました。

そしてしばらく花火を行われなくなるようになりますが、ほとほりも冷めたころに花火を行って打ち上げの事故が起きて禁止されるといったことが繰り返されました。

そんなころに奈良から出てきた鍵屋初代弥兵衛は両国横山町に「鍵屋」を開業します。そこで花火を研究行いました。

その当時の花火は今のような打ち上げ花火ではなく煙と炎がでるような花火で、今のような打ち上げ花火になるのは1751年頃に開発されたといわれています。

そんな江戸時代の花火は今ほど派手さはありませんでした。そして大勢が見ることができる花火は今と変わらず費用のかかるものでした。

そんなお金がかかる花火の大きな大会を作り出したのが8代将軍吉宗でした。江戸で大きな病気や飢饉で多数の死者が出たことからその鎮魂と供養のために両国の花火を行いました。

先ほどからしつこく言っているように今のような派手さはありません。この当時は20発の単色の花火を打ち上げるのみでした。この花火を仕切ったのが鍵屋でした。

倹約家の吉宗ということもあるかもしれませんが、花火は20発前後だけでともて派手さなどはありませんでした

この両国の花火、実はこれから年々と派手になります。

両国の花火は隅田川の周辺の料亭や船宿がお金を出資していきます。そうすると花火も派手になってき人を集めるようになりました。
そんな花火は人気がありすぎたために人が橋の上に集まりすぎて欄干を追ってしまうといった事件も起きるほどでした。

将軍吉宗が初めて両国の花火のとき以外にも、もちろん花火を飛ばす人たちはいました。

それが江戸の商人たちでした。
先ほども言ったように花火はとてもお金がかかるものです。そんな花火を打ち上げることができたのが江戸の街で財をなした商人たちが自分たちの乗っている船から見物するために花火を上げていました。

それでも何発もの花火を飛ばすのではなく2,3発花火を飛ばすだけだったようです。そしてその花火を見て庶民は楽しんでいました。

今もそうですがその当時もお金を持っている商人がもっとも楽しいことができたようで、とてもお金のかかった舟遊びができるのは成功した商人だけだったようです。