
夏の夜空を彩る花火。
その歴史は古く、起源は中国の「狼煙(のろし)」だと言われています。
日本で最も古い花火の記録は、室町時代の1447年。
「浄華院」というお寺での法事の後に、境内で行われたと公家の日記に記されています。
では、花火文化が花開いた「江戸時代」の夜空は、どんな様子だったのでしょうか?
実は、今の花火大会とは全く違う、意外と地味(?)なものだったようです。
江戸っ子の敵? 度重なる「花火禁止令」
戦のない平和な江戸時代になると、火薬は武器としてではなく、娯楽(花火)に使われるようになりました。
初期の花火は「ねずみ花火」や、煙を楽しむ「狼煙花火」が中心でしたが、ここで大きな問題が起きます。
「火事」です。
木造住宅が密集する江戸の町にとって、火は最大の大敵。
そのため幕府は神経質になり、1648年には3代将軍・徳川家光によって「花火禁止令」が出されました。
その後も、「禁止される」→「ほとぼりが冷めてまた流行る」→「事故が起きてまた禁止」というイタチごっこが繰り返されます。
花火師「鍵屋」の登場
そんな中、奈良から江戸へ出てきた鍵屋・初代弥兵衛が、両国横山町に「鍵屋」を開業します。
彼は研究を重ね当時の花火はまだ、煙と炎が吹き出すタイプが主流で、現在のような「打ち上げ花火」が開発されたのは、もう少し後の1751年頃だと言われています。
吉宗が始めた「隅田川花火大会」
現在も続く「隅田川花火大会(当時は両国の川開き)」のルーツを作ったのは、8代将軍・徳川吉宗でした。
当時、江戸では享保の疫病(コレラなど)や飢饉によって、多くの死者が出ていました。
そこで吉宗は、死者の鎮魂と悪霊退散を祈願して、両国で水神祭を行いました。
この時、余興として花火を打ち上げたのが始まりです。
最初はたったの「20発」
将軍主催の花火大会となれば、さぞ豪華だったのだろうと思いきや、実はかなり質素でした。
倹約家で知られる吉宗の性格もあってか、打ち上げられたのは単色の花火が20発前後だけ。
今の次々に打ち上げるのような派手さは全くありませんでした。
それでも、暗いニュースが続いていた江戸の庶民にとって、夜空に咲く光は大きな希望となったことでしょう。
スポンサーは商人!加速する「派手さ」
吉宗が始めた質素な花火でしたが、年々その規模は拡大していきます。
その背景には、「商人(スポンサー)」の存在がありました。
両国周辺の料亭や船宿が、「花火が上がれば客が来る!」と考え、お金を出資するようになったのです。
資金が集まれば花火は派手になり、さらに多くの見物客が集まるようになります。
あまりの人気に、見物人が橋の上に殺到しすぎて、欄干が折れる事故が起きるほどでした。
商人の究極の遊び「プライベート花火」
また、花火大会の日以外にも、花火を楽しむ人たちがいました。
成功した大商人たちです。
花火は非常に高価なものでしたが、財を成した商人は自ら船を出し、自分のためだけに2〜3発の花火を打ち上げて楽しんでいました。
川岸の庶民たちは、「おっ、今日もどこかの旦那が上げてるな」と、そのおこぼれを見て楽しんでいたようです。
今も昔も、お金持ちの豪遊が文化を作っていたのですね。
💡 やさしい江戸案内の雑学メモ
「鍵屋」と「玉屋」の運命
花火の掛け声といえば「たまや〜、かぎや〜」ですが、実は「玉屋」のほうが人気がありました。
玉屋は鍵屋から暖簾分けしたお店ですが、その技術と派手さで江戸っ子の心を掴みました。
しかし、玉屋は失火(火事)を出してしまい、わずか一代で江戸から追放されてしまいます。
そのため「玉屋」は短い期間しか存在しませんでしたが、その輝きは掛け声として今も残っているのです。
まとめ
江戸の花火は、最初は火事対策で禁止され、吉宗の時代に「鎮魂」として復活し、やがて商人の力でエンターテインメントへと進化しました。
たった20発から始まった光が、今では数万発の大輪となって夜空を彩っていると思うと、感慨深いものがありますね。
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