天下の台所、今ではあまり聞くことはありませんが学校の教科書などには載っていたりします。
この天下の台所、実は江戸時代にはそんな名前で呼ばれてはいません。大正時代の幸田成友が『大阪市史 第二』などの叙述中で用いた用語が一人歩きをして教科書などで江戸の時代から呼ばれていたように書いてあることが原因となり、世間に広がっていきました。
とはいえ、天下の台所と呼ばれる要因となった言葉は江戸時代の1843年(天保13年)に水野忠邦の主導として行われた天保の改革のときに、大坂町奉行である阿部正蔵が株仲間の廃止に対しての意見書のなかで書かれていた文章に「世俗諸国之台所と相唱」とあったことが由来と言われています。
大阪は世間の経済の中心という意味であり、江戸時代の経済の中心と言われるのは大坂に全国の藩で年貢米としてとれた米が集まる重要な場所だったのが大阪でした。
江戸時代では米は食料でありならが、貨幣と同じ役割を担っていました。そんな米が大阪には全国からの藩から年貢米として集められ、それが商人によって米切手(こめきって)として取引され売れたお金が藩のお金となっていました。
※米切手は米の保管証明書
大阪に米の集めるのには理由がありました。
米がたくさん作られる九州や高知などの南日本を経由する船が瀬戸内海航路などを通って大阪に様々荷物をあつまる状況ができていました。波の荒い外海ではなく、瀬戸内海の波に緩やかな内海を通って経由することで安全に輸送できることもひとつの要因となりました。
現代のようにトラックのない人力の中で風の力を使って海の上を運ぶことができる船が江戸時代にはもっとも荷物を運ぶのに適した方法は船だったこともあり、海の中継地点としての大阪の役割は重要となっていきます。
大阪には菱垣廻船(ひがきかいせん)や樽廻船と言った多くの荷物を輸送できる船があつまり、海運業の拠点として大阪や京都の上方から江戸への定期的なルートによって江戸の時代でも経済の中心地の地位をにないました。
船があつまることで様々な地域からの品物が大阪に集まるようになると遠くまでいかなくても大阪ですべてを賄うことができるようになり、北海道から沖縄まで様々な特産品を取引する問屋が現れることで大阪は経済の中心となりました。そのため商人の町と呼ばれるようになります。
大名の米が大阪に届くと商人たちに売買されお金へと換金されます。換金するために米を運んだ商人は大阪の問屋で国元へ様々な物を仕入れて各藩に運んで行きと帰りで商売をすることで問屋、仲買、小売へと現代にも続く商品の流れが生まれていきました。
取引されていたものは米以外に、塩、灰、酒、木綿、油など様々だった。