夏といえば花火ですがそんな花火屋でクイズです。

江戸時代、江戸の街で人気を2分していた花火屋「鍵屋」「玉屋」がありました。この2つの店で現在でも残っているのは?

答えは『鍵屋』

江戸の街で人気を二分していた花火屋は「鍵屋」と「玉屋」でした。この二つの花火屋は鍵屋だけが現代でも営業を続けています。日本一古い花火の業者で1660年頃から花火を作り続けています。

江戸時代からから花火は行われていました。そんな花火屋でも人気のあった『鍵屋』『玉屋』とは。

 

昭和の時代まで掛け声にもなった『鍵屋』『玉屋』

現在日本で最も古い花火屋は『鍵屋』ですが、江戸時代には『鍵屋』同じぐらいに人気があったのが『玉屋』です。

この2つの花火屋、鍵屋と玉屋は昭和の時代には花火に向かっての掛け声として

「たまや~~~!!」
「かぎや~~~!!」

 

と掛け声があげられていました。

最近の花火大会では大きなボリュームでBGMが流れているので掛け声をかける人を見なくなりましたが、30年ほど前には花火に向かって「たまや~~~!!」と叫んでいる人がいました。

 

「たまや~~~!!」
「かぎや~~~!!」

 

2つの掛け声がありますが、玉屋は1843年に潰れたのですが延々と掛け声だけが残っていました。

声に出してみればわかるのですが大声で叫びやすいのは「たまや~~~!!」なために残り続けたといわれています。

 

 

江戸の花火の歴史

江戸時代がは進むにつれて戦がないために、火薬の使用が武器以外の使用方法を模索されました。そして、広がったのが花火です。

花火は火薬を戦国時代に作っていた人々の転職先だったのかもしれません。

江戸では花火はとても人気になりました。そのために1648年には花火は隅田川以外で行うことを禁止しています。

この処置は人気なための風俗的な問題と火事の原因になるという問題がありました。

当時の花火は今のような打ち上げる花火だけではなく、手でもって遊ぶ花火を巨大にしたものもあったことから火の粉が熱が冷めないうちに飛び散ってしまうことで火事になって板のかもしれません。

それでも花火の人気はあるために事故が続き、1648年以降何度か花火の禁止を幕府から命じられました。そのため花火は江戸では行われなくなりましたが、ほとほりも冷めたころに江戸で花火がおこなわれます。

そんなことが繰り返される中で第8代将軍吉宗が飢餓や病気による死者が多く出たことから鎮魂と慰霊のために花火を隅田川で行います。

その花火はとても些細で20発程度しか行われなかったようですが、それ以降は隅田川周辺の商人の出資により隅田川の花火の規模は大きくなっていきます。

そして1751年に高く打ち上げられる花火が生まれます。それまでは狼煙のような煙を出す花火や手持ち花火を巨大化したような花火でした。

江戸後期の浮世絵の花火の絵は玉が空へと飛んでいる物が多いいところから、時代が進むごとに打ち上げる花火にかわっていったようです。

 

『鍵屋』『玉屋』の歴史

江戸で花火が人気がでて1648年以降には禁止令などだされるようになります。

それから時がたち1659年に鍵屋の初代弥兵衛は玩具花火を江戸で売り始めます。彼は子供のころから花火作りを行っていたといわれており、大和国篠原(奈良県)から江戸に出てきて成功するのでした。

両国に店を構えた彼はそれ以後も花火の研究を続け、1733年に第8代将軍吉宗がおこなった隅田川の花火を取り仕切りまでになりました。

そんな鍵屋が6代目のころに鍵屋の手代(丁稚を勤めて元服した者)であった清吉が1810年に鍵屋から暖簾分けをしてお店を構えます。この生まれたお店が『玉屋』でした。清吉は市兵衛と名前を変えます。

これ以降は鍵屋と玉屋が江戸の花火の中心になっていきますが、1843年5月16日に玉屋から失火して、市兵衛は江戸から追放され『玉屋』は1代にして消滅してします。

たった30年の間に玉屋は鍵屋を抜く人気になっていたようでその当時の花火が描かれている浮世絵の多くは玉屋でした。