江戸という大都市の始まりは1590年に秀吉によって国替えの憂き目にあった関東に移ることになった家康が入ることから始まります。

なぜそのようなことになったかといえば、家康は日本の中心ともいえる五か国を支配していることからその力はますます巨大化し、経済力、軍事力ともに秀吉の脅威となっていました。そのため秀吉は家康が育てた土地を取り上げることでその力をそぐことにしました。

歌川広重「名所江戸百景」「千駄木団子坂花屋敷」1856
歌川広重「名所江戸百景」「千駄木団子坂花屋敷」1856

それでも関東へと国替えとなった家康はそれまでの国を育てた経験を元に、江戸でもほぼ一から様々な改革を始める。家康にとって近畿から離れることで大阪から離れたことでより秀吉の影響が弱くなり、自由に改革をすることができさらに巨大な存在となりました。

そんな江戸を開拓をした家康が江戸城に入る前の江戸といえば、道は東海道や中原街道で家康がもともといた駿河ともつながっていましたが、江戸宿という宿場は小田原城とつながる小さな1つの宿場にすぎず、その周辺である原宿、芝、六本木、浅草もそれほど旅人もいない小さな宿場でした。

その土地に住んでいる人たちも、家康が入る前は民家は畳をひいているような家はなく、商店街のような日用品を販売しているお店もないような土地だった。それほど発達していないのはそれだけ人の流れがないため、大きな宿場はなく茶屋や旅籠がところどころあるだけであった。

1658年にでた『東海道名所記』では宿場や郷土の間食品が東海道に集められ整備されたといわれている。

とはいえ人もそれほど住んでいない土地であった。土地は余っていいても人が足りない江戸には家康のもとに集まったり呼び寄せた移住者によって街が作られていく。移住者の多くは昔に家康おたすけた伊勢者であり、彼らのお陰で江戸は新たに埋立地が必要になるほどに江戸は発展していく。

江戸の土地の権利と売買

江戸の街が発展していくにしたがって巨大化になっていきました。そんな江戸には多くの屋敷や町が出来きましたが、その所有権といえば領主のものであり徳川幕府の権利がありました。そこに住む人々には権利がなかったです。

例外はありますが、土地の所有権については、これは平安の昔からの伝統的な考え方でした。

秀吉に国替えをさせられた家康ではありますが、江戸幕府を開いてからの徳川政権も秀吉と同じように様々な大名を国替えさせています。そこからもわかるように日本を支配していた権力者がすべての土地支配して幕府からのお国替え勝手な状態だった。

そんな状態であるから、もちろん江戸の街で住んでいる人たちも大名や武士には屋敷替え、町人なら町替えが江戸の街が巨大化するにしたがって度々行われた。

そのため江戸に人々には先祖代々の土地というものは存在せず、武士は役職を解かれると住んでいた屋敷を追い出され、町人なら町ぐるみで別の場所へと移動させられた。土地の権利は幕府の持ち物でありますが、不動産の取引がなかったのかといえばそうではなく地面売買が認められていた。

この時代の建物への税は間口だったことから鰻の寝床のような細長い屋敷が多かったが、商売に成功した商人が隣の取りを買い取り店を大きくするために日本橋や京橋のように商売が盛んなところではウナギの寝床のような取り壊されていった。

歌川広重「名所江戸百景」「日本橋通一丁目」1858
歌川広重「名所江戸百景」「日本橋通一丁目」1858


普通に暮らしている町人には地面の権利を買うお金はないが商人よって江戸の様々土地が売買の対象となる。土地は所有権は持てませんでしたがその土地の上に建物を建てる権利を売買する事が出来ました。

幕府が移動を命じない限りは、自由にお触れに触れない限りは建物を建てることができました。

それに比べて武士の建物の権利は基本的に売買は認められておらず、取引を禁止されていたのだが貸地として利用することが許される場合がありました。武家地を借りるのはやはり商人たちであり、借りると商家を立てたり、武家屋敷をぐるりと取り囲むような形で貸家が建てられ賃貸を取るという町並屋敷という不思議なものが誕生した。

武家以外の者が出入りするようになり、これがあまりに酷くなると幕府に取り締まられることになる。