現在の東京は、日本の首都として高層ビルが立ち並ぶ大都会ですが、そのルーツは1590年(天正18年)に徳川家康が江戸に入ったことから始まります。
当時の江戸は、湿地帯が広がるド田舎でした。
家康はそこから世界有数の巨大都市を作り上げましたが、そこで一つ疑問が浮かびます。
「この莫大な江戸の土地は、一体誰の持ち物だったのか?」
実は、江戸時代の不動産事情は現代とは全く違うルールで動いていました。今回は、家康の国づくりと、武士たちの意外な土地活用について解説します。
この記事の要点
- 家康が入る前の江戸は、茅葺き屋根さえない寂れた寒村だった
- 江戸の土地はすべて「将軍(幕府)」のもので、武士、庶民に所有権はなかった
- 生活に困った武士は、屋敷の敷地を貸し出す「町並屋敷」で稼いでいた
家康が左遷された「田舎町」江戸
1590年、豊臣秀吉の命令により、家康は長年治めた東海地方(五ヶ国)を取り上げられ、関東への「国替え」を命じられました。
これは実質的な左遷であり、秀吉による家康の勢力削ぎ落とし策でした。
入城前の江戸は何もない湿地帯
当時の江戸は、小田原城へ続く街道の小さな宿場に過ぎませんでした。
現在の原宿、芝、六本木、浅草といったエリアも、当時は人の少ない寒村。民家といっても畳などなく、日用品を売る店すらないような状態だったといいます。
しかし家康は、この未開の地を「近畿(秀吉の支配下)から離れて自由に開発できるチャンス」と捉え、伊勢商人などの協力者と共に、埋め立てを中心とした大規模な都市開発に着手しました。
江戸の土地は「すべて徳川幕府のもの」
都市として発展した江戸には、大名屋敷や町人地がひしめき合うようになります。
では、その土地の権利書は誰が持っていたのでしょうか?
答えは、「すべての土地は徳川幕府(将軍)のもの」です。
「拝領」という名のレンタル契約
平安時代からの伝統的な考え方により、領主(将軍)こそが真の土地所有者でした。
大名や旗本が住む広大な屋敷も、あくまで幕府から「拝領(はいりょう)」している、つまり「役職についている間だけ貸してもらっている」状態に過ぎません。
そのため、幕府の都合による「国替え」や「屋敷替え」は絶対命令。
「先祖代々の土地だから動かない!」という理屈は通用せず、武士も町人も、幕府の命令一つで引っ越しを余儀なくされました。
武士の副業?「町並屋敷」の誕生
土地の売買が禁止されていた武士階級ですが、平和が続き経済が苦しくなると、背に腹は代えられない状況になります。
そこで編み出されたのが、「敷地の一部を商人に貸して家賃を取る」という裏技です。
屋敷の周りがお店だらけに
これを「町並屋敷(まちなみやしき)」と呼びます。
武家屋敷の敷地の外周部分(通りに面した部分)に長屋を建て、商人や職人に貸し出したのです。
本来、武家地に町人が住むことは規制されていましたが、経済活動が活発な江戸では黙認される傾向にありました。
こうして、武士のプライドである屋敷の一部が、実益を兼ねた「賃貸の副業」の場へと変わっていきます。
しかし、だんだんと怪しい人が出入りするようになり、幕府も黙認することができないようになると取り締まられていきます。
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町人は「地面」ではなく「権利」を買った
町人の間では、土地の売買が行われていましたが、正確には「土地の所有権」ではなく「地面の利用権」や「上物の所有権」が取引されていました。
税金が「間口(道路に面した幅)」で決まったため、江戸の町家は「うなぎの寝床」と呼ばれる間口が狭く奥行きが長い形が一般的でした。
しかし、日本橋のような超一等地では、豪商たちが隣近所の権利を次々と買い取り、巨大な店(デパートの原型)へと建て替えていったのです。
まとめ|「拝領」という名の不安定な暮らし
「自分の家を持つ」ことが夢とされる現代ですが、江戸時代はどんな大名であっても、将軍からの借り暮らしでした。
しかし、その不安定な仕組みの中で、武士は土地を貸し、商人は権利を売買し、たくましく経済を回していたのです。
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