江戸時代、不思議な社会です。米が貨幣として扱われている社会、農民が作ったお米を年貢として武士が徴収して、大名は商人に売ってお金に変えてそのお金で生活をしていました。

江戸時代の経済の中心であった年貢のお米ですが、食べればなくなってしまいます。

食べて無くなってしまう米が江戸の経済の基盤と考えるとなかなか面白い時代です。

世界的にもお金ではなく食料が世の中を動かしているというのは珍し環境です。

お金にも変えることができるお米を作っている農民ですが、彼らは米を食べることができたのかという疑問があります。

この時代で白米を食べていた人たちは

大名は白米を食べていました。
武士は白米を食べていました。
町民も白米を食べていました。

 

では農民は?

六十余州名所図会 伯耆 大野 大山遠望
六十余州名所図会 伯耆 大野 大山遠望

 

幕府から出された慶安のお触書と呼ばれるものには”農民は粗食を心がけ年貢米の他に、自分たちの食い扶持は雑穀を作って食べるように”といった内容があります。

雑穀というのは、粟や稗といったものを良くて玄米のことです。

徳川家康の名言の中にも
東照宮上意に、郷村の百姓共は死なぬ様に、生ぬ様にと合点致し”という言葉を残しています。

 

何も考えずに訳すなら
『農民からは死なない程度に絞りとろうぜ!!』
ということになります。

なかなかひどい話です。

 

明治の話ですが軍隊を作るために農家の次男坊三男坊などを集めて軍人にした際に、集まった人たちは白米を好きなだけ食べられることを喜んだという記録もあるので多くの地域で白米を食べることができなかったのではないかと考えられています。

地域によっては年貢さえ払えば好きにしていいという地域もあったようなので、その地を収める大名のさじ加減を大きく影響していたのではないかと考えられます。

しかし、軍人になる人たちは土地を持っていない小作人の子供などが多かったこともあり、生活が厳しかったことから食べ物に選り好みができなかったということもあります。

 

 

ほんとうの本当に食べていなかったのか?

 

繰り返しになりますが本当に農民は食べていなかったのか?

先ほどの話からは食べていなかったと思わせる話をしましたが実際のところ白米を御触れを無視して食べていた地域は多くあったように考えられてます。

 

慶安のお触書の6年前にも農民の常食は雑穀を食べなさいという内容のお触れでした。

こういった同じ内容のお触れは何度も江戸時代の間に出されています。260年も続いたので似たような内容のお触れがあったのではなく短い期間に出されていることを考えると江戸の周辺ではある程度守られたのかもしれませんが、ほかの地域では守られていないためにお触れが何度もだされたのでしょう。

 

他にも

”農民は生かさす殺さず、タバコや酒、お茶などを禁止するように”徳川家康の言葉があるのですが、これ以降の時代で農民が酒とタバコ楽しみつつお茶を飲んで休憩している絵があることからも幕府の出したお触れがしっかりと守られていなかったようです。

 

ちなみに、江戸時代のはじめ農民の年間のお休みは大体30日から40日ぐらいといわれていましたが、江戸時代末期には60日以上休みがあったと考えられています。

農機具の発達などの要因で仕事をする時間は確実に減っていったようです。

世の中のブラック企業の社員よりは休みがあるような気がします。