学校の歴史の授業では、よくこのように習いませんでしたか?
「豊臣秀吉によって、徳川家康は何もない寒村(江戸)へ飛ばされた。そこで苦労して大都市を作り上げた」と。
確かに家康の功績は偉大ですが、近年の研究では「江戸はそこまで何もない場所ではなかった」ということが分かってきています。
実は、江戸という名前は鎌倉時代から歴史の表舞台に登場していたのです。
この記事の要点
- 家康の「国替え」は、地盤を切り離して力を削ぐための秀吉の戦略
- 江戸は鎌倉時代の『吾妻鏡』にも登場する、歴史ある港町だった
- 家康は「水運」と「埋め立て」で、中規模都市を巨大都市へ改造した
なぜ家康は江戸へ飛ばされたのか?
近畿地方で絶大な権力と経済力を持ち、秀吉にとって最大の脅威となっていた徳川家康。
秀吉が行った「関東への国替え」は、単なる嫌がらせではありません。
家康が育て上げた土地や民とのつながりを断ち切り、経済基盤をゼロにリセットさせることが目的でした。
家康自身も後に、全国の大名に頻繁に「国替え」を命じています。
「土地との結びつきを断てば、反乱を起こす力も削がれる」。家康は身をもってその効果を知っていたからこそ、徳川政権の安定のために同じ手を使ったのでしょう。
実は「良い港」を持っていた江戸
では、家康が入る前の江戸は、本当にただの湿地帯だったのでしょうか?
実は、鎌倉幕府の公式歴史書である『吾妻鏡(あずまかがみ)』にも、「江戸氏」という武士団の名前が登場するほど、古くから知られた土地でした。
江戸の地形は「入り江」が深く入り込んでおり、天然の良港でした。
1450年代には、名将・太田道灌(おおた どうかん)が江戸城を築き、北関東と鎌倉・京都を結ぶ「水運の中継拠点」として、それなりに繁栄していたのです。
陸の道はまだ発展途上
海からのアクセスは良好でしたが、陸の道はまだ未整備でした。
当時のメインストリートは「中原街道」で、江戸は小田原(北条氏の拠点)へと続く道にある、小さな宿場の一つに過ぎませんでした。
現在の大都会である四谷、原宿、六本木、浅草なども、当時は茶屋や旅籠がポツンとある程度の、静かな集落だったようです。
家康による「大改造ビフォーアフター」
1590年に入城した家康は、太田道灌が作った小規模な城と港町をベースに、大規模な拡張工事を開始します。
最大のミッションは「埋め立て」です。
入り江を埋め立てて日本橋や京橋などの土地を作り出し、城も「本丸・二ノ丸」に加え、「西ノ丸・三ノ丸・吹上・北ノ丸」と増築を重ねていきました。
💡 やさしい江戸案内の雑学メモ
橋の名前に残る「二人の後藤」
江戸城の近く、日本橋川にかかる「一石橋(いちこくばし)」をご存知でしょうか?
家康の都市計画により、この橋の北側には金座(小判を作る所)の「後藤庄三郎(しょうざぶろう)」が、南側には呉服所(着物係)の「後藤縫殿助(ぬいのすけ)」が屋敷を構えました。
当時の単位で「五斗(ごと)」+「五斗(ごと)」=「一石(いっこく)」。
二人の後藤(五斗)がもともとあった橋が壊れた際にお金を出して掛けられた橋だったので「一石橋」と呼ばれるようになったという云われがあります。江戸っ子の洒落が効いたネーミングが、今も地名として残っているのです。
まとめ|「何もない」から「全てがある」場所へ
江戸は、まったくのゼロから生まれたわけではありません。
鎌倉時代からの歴史と、太田道灌(おおたどうかん)が目をつけた「港」としてのポテンシャル。そこに家康という天才的な都市計画家が加わったことで、世界最大級のメガシティへと変貌を遂げたのです。
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参考文献
- 田村栄太郎『江戸時代 町人の生活』 (生活史叢書 11)
- 進士慶幹『江戸時代 武士の生活』(生活史叢書 1)





