2000年頃までは、豊臣秀吉によって徳川家康は江戸という寒村の土地しかない辺境へと飛ばされ、そこで偉大な家康が江戸の街を作り上げたという学校では習います。
今まで頑張って近畿で絶大な権力と軍事力、経済力と秀吉を脅かすほどの力を持っていた家康ですが豊臣政権の脅威となっていることから国替えをさせられ、秀吉はひどい奴でそれに逆らえなかった家康はなんと可哀そうに苦労をするタヌキなんだろうと思った人もいるかもしれません。
そんな家康も徳川政権を手に入れるてやったことといえば、日本中の大名に国替えをさせて地域とのつながりを断つことで権力と経済力を奪います。そう考えると権力を取ったて戦争をせずに敵の力を奪うためには、もともといた地域から切り離すことで経済やその土地とのつながりを断つことが重要ということなのでしょう。
実際のところ江戸の地形を見ると、良い入り江があり海に面した地域であり、江戸の名前も古くは鎌倉幕府の歴史書である『吾妻鏡』にも出てくるほどに古い土地である。
古くからあり、船の出入りの港がある土地は古来より発展する土地であり、江戸も最近の研究では、家康入城するまえから1450年代に活躍した太田道灌などの人物が水運の中継拠点として利用されており実はそれなりに発展した悪い地域ではなかったようであった。
とはいえ、陸からは江戸宿は相州小田原城という、北条氏の大きな城下町へと続く道の1つの宿場でしかない。今で言う所の四谷、原宿、六本木、浅草などには小さな宿場ががあるだけで、旅の者が休憩できる家程度の宿場というには大きくない地域である。
東海道の浮世絵のように常に人が道を歩いていた風景ではなく、たまに人が通り程度の街道であり、家康が整備した東海道を整備するまでは中原街道が相州小田原城から江戸宿までの移動に使われ東海道は使われていなかれておらず、街道にはたまに茶屋や旅籠(宿)が点在していた地域である。
江戸は、日本橋や京橋などの埋立地を作り、土地を拡大して江戸城を中心とした城下町が作られていく。江戸城は道灌の築城した小規模な城であったが長い歳月により荒廃してたことと小規模の城であることから本丸・二ノ丸に加えて西ノ丸・三ノ丸・吹上・北ノ丸を増築された。
江戸城を中心とした城下町には江戸城で必要な物品を供給する者たちが住むようになる。江戸城の近き一石橋(いちこくばし)日本橋にかかる橋の1つでその南北には銀座後藤庄三郎(ごとう しょうざぶろう)と呉服所後藤縫殿助(ごとうぬいのすけ)の屋敷が置かれた。
銀座後藤庄三郎は小判の験極印を打印をする仕事、呉服所後藤縫殿助は家康が岡崎城にいた頃からの呉服御用達(ごようたつ)であった。
徳川幕府の造る江戸は埋め立てと江戸城に関連する仕事の人々によって作られていった。