
株仲間(かぶなかま)とは、同じ種類の商品を扱う商人や職人がつくった同業者の組織です。
仲間に入った商人たちは、誰が営業できるのか、どのような方法で商品を取引するのかなど、商売のルールを決めました。幕府もやがて株仲間を公認し、商人や商品の流れを把握するために利用するようになります。
ただし、株仲間には新しい商人が簡単に参入できない仕組みがあり、価格や取引条件を仲間内で決めることもありました。そのため商売を安定させる役割がある一方で、独占によって物価を高くしているのではないかと批判されることもあります。
そして天保の改革では、ついに幕府自身が株仲間の解散を命じました。
幕府が一度は公認した株仲間を、なぜ解散させたのでしょうか。そして、なぜその後に再び認めることになったのでしょうか。
株仲間の仕組みと江戸幕府との関係を順番に見ていきます。
株仲間とは?同じ商売をする人たちの組織
江戸時代の町には、米、酒、油、木綿、薬、書物など、さまざまな商品を扱う商人や職人がいました。
商売が盛んになり、同じ商品を扱う人が増えてくると、商人同士にも共通のルールが必要になります。
たとえば、同じ町に饅頭屋が何軒もあったとしましょう。
店ごとにまったく違う量や品質の商品を売り、代金の払い方にも決まりがなく、約束を守らない店まで出てくると、商売そのものへの信用が失われかねません。
そこで同じ仕事をする人たちが集まり、
「商品の扱い方はこうしよう」
「代金の支払いはこの方法にしよう」
「約束を破った者には罰を与えよう」
といった決まりを作ります。
江戸時代の商人たちは、このような「仲間」を各地でつくっていました。
幕府は当初、商人が勝手に仲間をつくって営業を独占することには警戒していました。しかし、江戸の人口が増え、全国を結ぶ商品流通が大きくなるにつれて、幕府にとっても商人を組織して管理することに利点が生まれてきます。
その中で幕府や藩の公認を受け、営業する人の数などを定めた組織が株仲間です。
株仲間の「株」とは何だったのか
ここで少し分かりにくいのが「株」という言葉です。
株仲間の「株」は、現在の株式会社の株式そのものを意味するわけではありません。
簡単にいえば、
「この商売をすることを認められた資格・権利」
のようなものです。
ある商売について「100株」と決められていれば、その仲間に参加して営業できる人数も基本的には限られます。
この株は場合によっては譲渡や売買もできたため、利益の大きな商売では株そのものに高い価値がつくこともありました。
つまり株仲間に入っていることは、単なる商人同士の親睦会に参加することではありません。
一定の商売を行う権利と、その商売をめぐるルールの中に加わることでもあったのです。
株仲間は何をしていたのか
株仲間というと、現在の「カルテル」のように、商人が集まって値段を決める組織を思い浮かべるかもしれません。
確かに、仲間以外の新規参入を制限したり、商品の価格や利益、取引条件について申し合わせたりすることはありました。
しかし、それだけではありません。
株仲間は、
- 営業する商人を把握する
- 商品の取引方法や商売上のルールを決める
- 商品の品質や量、包装などについて基準を設ける
- 仲間内の争いや不正な取引を取り締まる
- 商人同士の信用を保つ
- 幕府からの命令を仲間に伝える
といった役割も持っていました。
大量の商品が大坂から江戸へ運ばれ、さらに各地へ売られていくようになると、見知らぬ商人同士が取引する機会も増えていきます。
そんな社会では、
「この商人なら代金をきちんと払う」
「この仲間の商品なら一定の品質がある」
という信用が重要になります。
株仲間は競争を制限する組織であると同時に、江戸時代の商取引を成り立たせるためのルールと信用を支える組織でもありました。
なぜ江戸幕府は株仲間を公認したのか
幕府は最初から株仲間を積極的に認めていたわけではありません。
ところが8代将軍・徳川吉宗の享保の改革になると、方針が変わります。
享保の改革で商人の「仲間」を利用する
享保6年(1721)、幕府は江戸の商人や職人に仲間をつくらせる政策を進めました。
背景にあったのは、単純な税収目的だけではありません。
当時の幕府には、
- 商品の価格を把握する
- ぜいたく品の製造や販売を取り締まる
- 商人や職人をまとめて管理する
- 幕府の命令を商人へ伝えやすくする
といった目的がありました。
何千人もの商人を幕府が一人ずつ管理するのは大変です。
しかし、商人が業種ごとに仲間をつくっていれば、その代表者を通じて命令を伝えたり、商品の価格や流通量を報告させたりできます。
株仲間は商人にとって利益を守る仕組みであると同時に、幕府にとっても商業を管理するために便利な仕組みだったのです。
冥加金・運上金とは?公認の代わりに納めたお金
幕府や藩に公認された株仲間の中には、営業上の特権を認められる代わりに、冥加金(みょうがきん)や運上金(うんじょうきん)を納めるものがありました。
現在の税金とまったく同じ制度ではありませんが、商売を認めてもらうことなどに対して幕府や藩へ納める金銭です。
この仕組みは幕府側にとっても魅力的でした。
農民から集める年貢だけに頼るのではなく、発展してきた商業からも収入を得られるからです。
その傾向がさらに強くなるのが、18世紀後半の田沼意次(たぬまおきつぐ)の時代でした。
田沼意次は株仲間をどう利用したのか
田沼意次の時代になると、幕府は商業活動を利用して収入を増やそうとする政策をさらに進めます。
各地で株仲間を公認し、そこから運上金や冥加金を集めました。
これは、
「農業から年貢を取るだけでなく、成長している商業からも幕府の収入を得よう」
という考え方です。
田沼政治というと、「賄賂政治」という言葉だけで説明されることがあります。
実際、特権を求める商人と役人との結びつきや賄賂が批判されることはありました。
しかし、
「株仲間を公認したから政治が腐敗した」と単純に考えることはできません。
幕府には商品流通を管理し、商業の発展から財政収入を得ようという政策上の目的がありました。
一方で、特定の商人だけに営業上の権利を認めれば、新しく商売を始めたい人が市場へ入りにくくなります。
株仲間が持つ「商売を安定させる力」と「競争を制限する力」は、表裏一体だったのです。
なぜ株仲間は解散させられたのか
その問題が大きく注目されたのが、老中・水野忠邦による天保の改革です。
19世紀になると物価高が大きな社会問題となっていました。
水野忠邦は、その原因の一つが問屋や株仲間による独占にあると考えます。
仲間が新しい商人の参入を妨げ、商品を自由に売買できないから物価が高くなる。
それなら株仲間をなくしてしまえば、自由な競争が起こり、商品も安くなるのではないか。
こうして天保12年(1841)、幕府は株仲間の解散を命じました。
考え方としては分かりやすいものでした。
仲間による独占をなくす → 商人が自由に参入する → 競争が増える → 物価が下がる
というわけです。
ところが、幕府が期待したようには進みませんでした。
株仲間を解散しても物価は下がらなかった
株仲間には独占的な面がありましたが、それまで長い時間をかけて商人同士の取引や信用を支えてきた組織でもありました。
その仕組みを急に取り払ったことで、従来の取引関係や商品の流通、信用を保つ仕組みにも影響が出ます。
しかも、幕府が期待したほど物価は下がりませんでした。
つまり、
「株仲間をなくせば、自由競争によって物価が安くなる」
という天保の改革の狙いは、期待どおりの結果を生まなかったのです。
ここが株仲間の歴史のおもしろいところです。
株仲間には競争を妨げる問題がありました。
しかし、その一方では商人同士の取引関係をまとめ、全国を結ぶ商品の流れを支える役割も持っていました。
悪い部分だけをなくそうとして組織そのものを解散させると、今度はそれまで組織が担っていた役割まで失われてしまったのです。
なぜ株仲間は再び認められたのか
株仲間解散から約10年後の嘉永4年(1851)、幕府は方針を転換し、問屋仲間などの再興を認めました。
ただし、昔の株仲間をそのまま元通りにしたわけではありません。
以前のような強い独占権には制限を加えながら、商品流通や商取引を安定させるために仲間組織を再び利用しようとしたのです。
この流れを見ると、
株仲間=悪い組織
とも、
株仲間=江戸経済を支えた良い組織
とも単純には言えないことが分かります。
競争を制限すれば商売は安定しやすくなりますが、新しい商人は参入しにくくなります。
自由にすれば競争は活発になりますが、それまで商人同士を結びつけていた取引のルールや信用まで失われることがあります。
江戸幕府も、その間で何度も政策を変えることになったのです。
やさしい江戸案内の雑学メモ
株仲間の「株」と現在の「株式」は同じもの?
株仲間の「株」は、その商売を営むための資格や権利を意味します。
株によっては譲渡や売買が行われることもあり、商売の利益が大きければ、その権利にも高い価値がつきました。
このため現代の「株」と似て見える部分がありますが、現在の株式会社が発行する株式とは仕組みが違います。
株仲間をそのまま「現代の株式市場のルーツ」と考えるのは適切ではありません。
同じ「株」という言葉でも、何を所有し、どのような権利を持つのかが違うのです。
株仲間の公認・解散・復活をまとめると
株仲間をめぐる幕府の政策を時代順に見ると、次のようになります。
| 時代 | 幕府の対応 | 主な目的・結果 |
|---|---|---|
| 江戸時代前期 | 商人の私的な仲間には警戒 | 幕府は独占につながる仲間を原則として警戒したが、実際には商人同士の仲間が各地につくられていた。 |
| 享保の改革 徳川吉宗 |
仲間を公認・利用 | 商人や職人を組織し、物価や商品流通を把握・統制する仕組みとして利用した。 |
| 田沼時代 田沼意次 |
株仲間の公認を拡大 | 商品流通を統制するとともに、運上金・冥加金によって幕府収入を増やそうとした。 |
| 天保12年(1841) 水野忠邦 |
株仲間を解散 | 独占をなくして物価を下げようとしたが、期待した効果は得られず、取引や流通にも悪影響が出た。 |
| 嘉永4年(1851) | 問屋仲間などを再興 | 商品流通や信用を立て直すため、独占権を制限しながら仲間組織を再び認めた。 |
まとめ|株仲間は江戸の商売を支えた「ルール」でもあった
株仲間とは、同じ商売をする商人や職人がつくり、幕府や藩から公認された同業者組織です。
営業する人を限定し、価格や取引条件を申し合わせるなど、現在から見れば独占的な仕組みを持っていました。
しかし同時に、商品の品質を保ち、商人同士の信用を維持し、全国に広がる商品流通を支える役割もありました。
そのため幕府は一度は株仲間を利用し、天保の改革では「物価高の原因」と考えて解散させ、期待した成果が得られないと再び仲間組織を認めています。
株仲間の歴史は、「自由に競争させればすべてうまくいく」「規制すればすべて安定する」というほど、経済が単純ではないことを示しているようにも見えます。
江戸時代の商人たちも幕府も、商売の自由と、取引を安定させるためのルールとの間で試行錯誤を続けていたのでしょう。
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参考文献
- 『日本大百科全書(ニッポニカ)』「株仲間」
- 『世界大百科事典』「冥加」
- 国立国会図書館所蔵『諸問屋再興調』
- 宮本又次『株仲間の研究』有斐閣





