二刀流の剣豪・宮本武蔵と、秘剣「燕返し」の佐々木小次郎。

二人が戦った「巌流島の決闘」といえば、遅刻してきた武蔵に小次郎がイライラし、武蔵が船のオール(櫂)を削った長い木刀で頭をカチ割る……というシーンが有名ですよね。

しかし、近年の研究や古い資料を見ると、私たちが知っている決闘のシーンは、ほぼすべて「演出(フィクション)」であることが分かっています。

今回は、世紀の決闘にまつわる「4つの大きなウソ」と、意外すぎる真実について解説します。

この記事の要点

  • 「巌流島」という名前の島は存在しない(正式には船島)
  • 武蔵は遅刻せず、定刻通り(あるいは早く)到着していた
  • 「若き天才剣士・小次郎」は、実は50歳過ぎの老人だった説が濃厚

浮世絵 貞房「宮本武蔵」
浮世絵 貞房「宮本武蔵」(伝説的なイメージで描かれた姿)

1. 「巌流島」という島は存在しない?

いきなりですが、地図アプリで「巌流島」を検索すると、住所には「船島(ふなしま)」という名前が出てきます。

実は、昔も今も「巌流島」という正式名称の島はありません。
現在の正式住所は「山口県下関市大字彦島字船島」です。

なぜ名前が変わってしまったのか

当時の人々に「決闘場所はどこ?」と聞けば、皆「船島だ」と答えたはずです。
しかし、敗れた佐々木小次郎の流派が「巌流(がんりゅう)」であったことから、人々が「巌流が負けた島」として呼び始め、それが定着しました。

さらに後世、小説家たちが「船島での決闘」と書くより「巌流島での決闘」と書いたほうがカッコいいため、この通称を多用し、全国的に広まってしまったのです。

2. 「船の櫂(オール)」では戦っていない

武蔵といえば、海岸に到着するまでの船の中で、船を漕ぐ道具である「櫂(かい)」を削って木刀を作った、という逸話が有名です。

しかし、これも小説家・吉川英治氏による創作(フィクション)である可能性が高いです。

実際には、櫂のような重くてバランスの悪いものではなく、事前に用意していた「木で作った太刀(巨大な木刀)」を使用したと考えられています。

「長い武器を使った」という事実はありますが、それが「即席の櫂だった」というのは、武蔵の器用さと野性味を強調するための演出だったのです。

なぜ木刀だったかといえば小倉碑文によると、『岩流云く、眞劔を以て雌雄を決すを請ふと。武蔵對へて云く、汝は白刃を揮ひて其の妙を尽くせ、吾は木戟を提げて此の秘を顕はさんと。堅く漆約を結ぶ。』と書かれています。

現代語で意訳すると
『巌流が真剣で勝負しようというと、武蔵があなたは真剣で技を見せて、俺は木刀で技を見せようという契約を結んだ』

このため、武蔵は自らの言にならい木刀をもちいたわけですね。

3. 最大の誤解!武蔵は「遅刻」していない

「遅刻して相手を焦らす」というのは、武蔵の戦術として最も有名なエピソードですが、これも史実とは異なります。

当時の一次資料(信頼できる記録)を見てみましょう。

  • 『小倉碑文(こくらひぶん)』:武蔵の養子が建てた石碑。
    「両雄、同時に相会す(二人は同時に会った)」と刻まれています。
  • 『沼田家記(ぬまたかき)』:決闘に立ち会った小倉藩の記録。
    これに至っては「武蔵の弟子たちが先に島に隠れていた」とすら書かれています。

つまり、武蔵は遅刻どころか、定刻通り(もしくは早めに)来ていたのです。

なぜ「遅刻できない」状況だったのか?

当時の武蔵は、フリーランスの剣豪として、大名への「仕官(就職)」を目指していました。
この決闘は、いわば御前試合のような武蔵のアピールの側面もあります。

立会人(役人)が見ている前で遅刻をするような「社会人として失礼な行為」をすれば、戦いに勝っても就職には失敗してしまうので、就職活動中の武蔵が、そんなリスクを冒すはずがないのです。

4. 小次郎は「若き天才」ではなかった

ドラマでは、武蔵(中年)vs 小次郎(美青年)という構図がお決まりですが、実際の年齢差は逆でした。


浮世絵 国貞「月本武者之助 坂東簑助」
歌舞伎などで描かれる小次郎は、常に「若く美しい」役柄ですが…

小次郎が剣術を習った師匠の年代から逆算すると、決闘当時の小次郎は50歳〜60歳を超えていた可能性が非常に高いのです。いくら天才でも兵術の達人を極めた人物と書かれているため若い可能性は低いでしょう。

  • 宮本武蔵: 29歳(働き盛りの青年)
  • 佐々木小次郎: 50代以上(引退間近のベテラン)

「若き天才」どころか、「体力のあり余る若者が、熟練の老人を叩きのめした」というのが、残酷ですがリアルな図式だったようです。

💡 やさしい江戸案内の雑学メモ

集団リンチ説もある?『沼田家記』の衝撃

決闘の立会人が残した記録『沼田家記』には、さらに衝撃的な結末が書かれています。

武蔵は小次郎を倒しましたが、とどめは刺さずに去りました。
しかしその後、隠れていた「武蔵の弟子たち」が意識を取り戻した小次郎を集団で襲い、殺してしまったというのです。

これが事実なら、正々堂々の決闘とは程遠い、かなり泥臭い抗争だったことになります。

まとめ|物語よりも人間臭い武蔵の姿

遅刻もせず、櫂も使わず、相手はかなり年上の老人だった。
こうして事実を並べると、小説やドラマのヒーロー像とはだいぶ違って見えます。

しかし、就職のためにマナーを守り、勝つためには手段を選ばないその姿勢からは、物語の中の英雄ではない、必死に生きる一人の人間のリアリティが感じられますね。

あわせて読みたい武士のリアル

江戸の町並み
江戸の土地は誰のもの?家康の都市計画と、武士が始めた「不動産経営」
武蔵も目指した「仕官(就職)」。しかし、いざ武士になっても生活は楽ではありませんでした。武士たちが副業でやっていた不動産ビジネスの実態とは?

 

吉原のイメージ
武士は「無断外泊」が厳禁!門限を破るとお家断絶?吉原遊びの苦しい裏事情
組織に就職した武士には、厳しいルールが待っていました。無断欠勤や遅刻が許されないのは、決闘の時と同じだったのかもしれません。

 

参考文献

  • 『小倉碑文』(承応3年)
  • 『沼田家記』(延宝元年頃)