江戸時代、船も橋も掛けることができなかった大井川を人が渡る

静岡県に流れる一級河川である大井川は南アルプスの山々から流れてくる水によって豊富な水をたたえる川として720年に書かれた日本書記にも名前が載っています。

そんな豊富な水が流れていた大井川ですが江戸時代は橋が架かっていませんでした。そのために江戸から旅をする者はこの川によってとても難儀していました。

 

東海道のの苦難の川・大井川

江戸時代でも普通は川を渡るときには橋を架けて渡ることで人の流れをよくしますが江戸時代には禁止されていました。なばら船ならどうかといえば船も禁止されていました。

江戸時代が中盤に差し掛かるころには今ほどでないにせよ旅に出る人は増えており、その中でも人気が伊勢参り、一生に一度は行きたいお伊勢参り江戸の人たちは考えていました。

その当時の旅は歩きで行うためにとても1、2日で帰ってくることはできません。最低でも一か月かかるほどの旅です。そんな旅をするときに江戸からは2つの道がありました中山道東海道です。

中山道は山が多くとても険しい道なのに対して東海道は云わば江戸から京都とつなぐ本線です。整備もしっかりとおこなわれており、とても観光地もところどころにあるというとても旅人には魅力的でした。

ただ箱根と大井川を除いては

明治の唱歌「箱根八里」でも箱根は天下の険と歌われるほどにとても険しい山道でした。その山中では道に迷った人や行き倒れがたびたびとあり、歩いて抜けるには整備がされているといっても大変なところだったようです。

そして大井川、この川を何事もないときに越えるだけなので箱根ほど大変ではありません。しかし、「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」と歌われるほどに簡単に越せないのが大井川でした。

大井川の上流にある南アルプスはとても雨量の多いい地域で流域の平均年降水量は3,000mmという多雨地域なために大井川の水嵩はすぐに人が渡れない状態になってしまい、川の前で何日も足止めをされることがありました。

川から向こう岸が見えるのに行くことができず、何日も過ごすとなると暇なために賭けや女をやらなくてもあっという間に路銀がなくなる人もいました。

雨が降れば渡れない、雨が止んでもすぐに渡れないとても困った川が大井川なのでした。

 

川越人足という人力で渡る大井川

運よく雨もなく天気も上々、渡れるかとおもいきや大井川は普通のときでもそれなり幅のある川で歩いて渡るのはとても大変な川。

今の姿は上流にいくつものダムができて見る影もない大井川をみるととても想像もつかないですが、当時の大井川は平均水深が76cmもありました。そこへ当時の人の身長の平均で約140cmと低いこともあり渡るには厳しいことがうかがえます。

そんな大井川をどこが深いのか浅いのかわからない状態で渡るのは一苦労、自力で渡った人は全身水だらけならマシな姿で溺れ死ぬ人もいました。

そんな簡単に渡ることができない大井川で人を渡すことを仕事にしている人達がいました。彼らは「川越人足」と呼ばれ、大井川で人を担いで渡ることを商売にしていました。

この商売、幕府の島田代官と宿場の役人が管轄していましたが1696年に年行事(ねんぎょうじ)と川庄屋の役職が作られる。

年行事は川越の料金の徴収や帳簿、人足の手配などをおこない、川庄屋は川越人足の料金を決めていました。そのため川越人足の扱いは藩府直参の下級官吏となっていた。

川越人足の値段はその日の大井川の川幅と深さによってきまっており、1800年頃の徳川10代の時代には膝あたりまでの水で48文(1440円)、肩まで水がある場合は94文(2820円)だったようです。

運ぶ方法は肩車や連台越しとよばれる4人の担ぎ手が台を担ぐという方法がとられていました。もちろん台の値段も取られます。

なかなか天候に左右される商売で人足たちは大水になると根が上がることから喜んだそうで、雨が降らずに簡単に歩いて渡れる日が続くと商売がなりたちませんでした。

川越人足のすべてがというわけではありませんが、たちの悪い奴らは、馬子(まこ)という馬に荷物を引いて荷を運ぶ人たちから騙しやすい旅人を聞いて、その旅人を浅瀬がないとふりをして客から余計にお金を取るようなこともしていました。

 

おまけ

大井川が江戸時代の間は橋がかけられることはありませんでしたが1879年(明治12)になると蓬莱橋という木造の歩道橋が作られた

江戸の護りとして橋も船も置かなかったという面とその地域での莫大な利益を目的にしていたといわれています。