江戸の町は徳川家康がほぼなにもない所から町を作りました。その時の町の計画として川を重視して街作りを行い、街中に船が橋に人や荷物を運べるようになりました。
今の時代では川があると便利になるようなことはほとんどなく、むしろ川を渡るために橋のところまで行かないといけないということもあり、面倒なことしかありません。
しかし、昔の江戸の町ではそうではありません。江戸の町を移動するときは基本的に自分の足で遠くに行くにもかなりの時間が必要でした。少しでも早く移動する方法として籠に乗って人に担いでもらって移動する方法がありましたが人間2人は最低でも雇わないといけないためにお金がかかること、駆け足程度の速度であるためにそれほど早くはありません。
江戸の庶民や武士が利用していたのが船でした。『猪牙舟(ちょきぶね)』と呼ばれる小さな舟が江戸の水路の至る所を駆け巡っており、家康時代から水路を使っての水運に力を入れていたおかげて掘割が整備されていたので目的地の近くまで舟でいくことが出来ました。
『猪牙舟(ちょきぶね)』の料金は江戸の前期頃は水道橋から浅草までが2匁(もんめ)ほどで1匁が2000円から2500円ほどだったことから5000円ほどかかりました。
猪牙舟は明暦年間に船頭であった長吉が作った「長吉船」という名前が段々となまっていき、形が猪の牙のような形をしていることから猪牙舟という漢字が当てはめられたと言われています。
猪牙舟の形は長さが約30尺、幅4尺6寸と細長く、とても揺れやすいが、狭い川では自由に動くことが出来ました
江戸の落語のネタで出てくる舟は猪牙舟で吉原に行くときに隅田川の山谷堀まで行くために利用していたことから山谷舟や勘当舟と呼ばれていたようです。