現代では、新幹線や飛行機を使えば、その日のうちに日本のどこへでも行けますよね。

しかし江戸時代、旅に出るということは、数週間から数ヶ月も故郷を離れる「命がけの大冒険」でした。

今回は、旅立つ前夜に行われた「今生の別れ」の儀式や、道中の安全を願う江戸っ子の縁起担ぎについて解説します。

この記事の要点

  • 江戸から大阪までは片道約15日、ひたすら歩く過酷な旅だった
  • 前夜には「水盃」を交わし、死を覚悟した別れを惜しんだ
  • 安全に帰るため、逆から読んでも同じ「回文」をお守りにした
江戸時代の旅立ちの風景
歌川広重『東海道五拾三次之内 御油 旅人留女』

江戸から大阪まで往復1ヶ月!過酷な徒歩の旅

江戸時代後期、歌川広重の『東海道五十三次』や十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の影響で、庶民の間で旅が大ブームとなりました。

とはいえ、移動手段は基本的に「自分の足」だけです。

【旅の距離と時間の目安】

  • 総距離: 江戸〜京都・大阪間でおよそ500km
  • 1日の移動: 約40km前後(フルマラソン並み!)
  • 所要日数: 片道で約15日、往復なら観光を含めて2ヶ月近くかかることも。

今のように道が舗装されているわけでもなく、険しい山越えや川渡りもすべて徒歩。
「籠(かご)」という乗り物もありましたが、非常に高額で、庶民にはとても手の出ない高級タクシーのような存在でした。

「今生の別れ」を惜しむ前夜の儀式

病院もなく、野宿や盗賊のリスクもあった時代。旅先で病気や怪我をすれば、そのまま命を落とすことも珍しくありませんでした。

そのため、旅に出る前夜には、親戚や友人を招いて盛大な宴会を開きました。
これが実質的な「最後の別れ」になる可能性もあったからです。

「水盃(みずさかずき)」に込めた誓い

宴の締めくくりに、お酒ではなく「水」を入れた盃を酌み交わすことがありました。
これは、村を作るために一致団結を誓う「一味同心(いちみどうしん)」の儀式にも通じる、強い絆の証です。

「たとえ離れていても心は一つ。必ず無事に帰ってこいよ」

そんな願いを込めて、仲間たちは旅人を送り出したのです。

朝4時出発!縁起を担ぐ旅立ちの朝

旅立ちの朝は早く、まだ外が暗い午前4時(夜明け前)には出発しました。
明かりのない時代、暗くなる前に次の宿場へたどり着かなければならないためです。

そんな朝、江戸っ子が最も恐れたのが「草鞋(わらじ)の紐が切れること」です。

今でも「靴紐が切れると不吉」と言いますが、当時はその比ではありません。もし紐が切れれば、「今日は縁起が悪い」として旅立ちを延期することさえありました。

方角や日取りにもこだわる

平安時代からの風習で、行く先の方角が悪いと、わざと遠回りをして方角を変える「方違え(かたたがえ)」という工夫も行われました。
また、カレンダーの吉凶(仏滅など)をチェックして、最高に運勢の良い日を選んで出発したのです。

魔法の言葉? 旅の安全を願う「回文」

旅の無事を願うユニークなおまじないに、「回文(かいぶん)」があります。
上から読んでも下から読んでも同じになる言葉遊びです。

特に有名なのが、この和歌です。


「長き夜の 遠の睡(ねむ)りの 皆目醒(めざ)め 波乗り船の 音の良きかな」

 (なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな)

これを3回口ずさむことで、「行って、また同じように帰ってこられる(回ってくる)」という縁起を担ぎました。

💡 やさしい江戸案内の雑学メモ

見送りは「品川宿」まで

江戸からの旅立ちの際、友人たちが「品川宿」までついてきて見送ってくれることがありました。

別れを惜しむため……と思いきや、当時の品川は吉原に匹敵するほどの歓楽街!
「見送り」を口実に、友人たちは品川で遊んで帰るのがセットになっていたという、なんとも江戸っ子らしい現金な話も残っています。

まとめ|執念ともいえる「無事への願い」

現代の旅行気分とは違い、当時の旅人たちは迷信や言葉遊び、そして仲間との盃に、必死に「生きて帰ること」を祈りました。

次に旅行へ行くときは、一歩踏み出す前に、江戸の人々が唱えた「回文」をそっと口ずさんでみてはいかがでしょうか?

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