将軍の正妻である「御台所(みだいどころ)」。
大奥の頂点に立つ彼女の食事は、さぞかし豪華で美味しいものだったと思われるでしょう。
確かに食材は最高級、量も毎日「10人前」が用意されていました。
しかし、実際に彼女が食べていたのは、現代の私たちよりも「冷たく、窮屈な」食事だったかもしれません。
今回は、毒見という名の通過儀礼と、大量の残り物を巡る大奥の裏経済事情について解説します。
なぜ「10人前」も作る必要があるのか?
御台所の料理は、大奥の中にある「御広敷御膳所(おひろしきごぜんじょ)」という厨房で作られます。
100人以上の役人が働き、朝夕の二回、正妻一人のために20人前(1回につき10人前)の料理が作られました。
これほど多く作る最大の理由は、将軍家を守るための「毒見(どくみ)」です。

御台所の口に入るまでの長い道のり
出来上がった料理が、そのまま食卓に並ぶことはありません。
以下のような厳重なチェックが行われます。
- 厨房での毒見:
まず、料理責任者(御広敷番頭など)が、一品につき一箸(ひとはし)ずつ食べます。
毒が回る時間を考慮し、しばらく待機。「異常なし」となれば次へ進みます。
(※この時点で1人前が減り、残り9人前) - 大奥内での毒見:
料理が大奥へ運ばれると、次は女性の役人(中年寄など)が待ち構えています。
ここでも再び毒見が行われます。
(※さらに1人前が減り、残り8人前)
こうして安全が確認されたものだけが、ようやく御台所の前へと運ばれるのです。
レンジのない時代、「冷めた料理」の悲劇
毒見を2回も繰り返し、厨房から大奥の奥深くへ運ばれる時間。
当然ながら、料理はすっかり冷め切っています。
電子レンジなどない江戸時代。
どんなに高級な食材を使った天ぷらや焼き魚も、食べる頃には冷たく固くなっていたことでしょう。
温かいご飯を食べるという当たり前の幸せは、大奥の頂点には存在しなかったのです。
おかわりも自由ではない?
さらに食事の作法も厳格でした。
御台所の前には残り8人分のお膳が控えとして並びますが、彼女が一度箸をつけたお膳はすぐに下げられてしまいます。
「この煮物が美味しいからもっと食べたい」と思っても、自由におかわりをすることは難しく、食事というよりは「儀式」に近い窮屈な時間でした。
大量の「残り物」はどこへ消えた?
さて、ここで一つの疑問が浮かびます。
「毎日残る大量の高級料理(残り7〜8人前)はどうなっていたのか?」
捨ててしまうにはあまりに勿体ない量です。
実は、これには2つの行先がありました。
1. 役人たちが食べる(役得)
御台所が手を付けなかった料理は「お下がり」として、その日の当番の役人たちが食べていました。
食べるのは、「お目見え以上(将軍や御台所に会える高い身分)」の女中たちだったと言われています。
冷めているとはいえ、使われているのは鯛やアワビなどの最高級食材。
普段は口にできない豪華な料理を食べられることは、彼女たちにとっての大きな「役得(楽しみ)」だったようです。
2. 弁当にして売る(裏ビジネス)
問題は、調理に使われなかった「余った食材」です。
鰹節(かつおぶし)などは、一番出汁をとるために数回削っただけで「残り」とされます。
実は、台所役人たちはこれらの余った高級食材を使って「弁当」を作り、城内の他の役人たちに内緒で売っていたのです。
冷蔵庫がない時代、食材はすぐに悪くなります。
「捨てるくらいなら売ってしまえ」というわけで、これは台所役人たちの公然の秘密の小遣い稼ぎとなっていました。
将軍家の食事作りは、役人たちにとっても「美味しい仕事」だったのですね。
💡 やさしい江戸案内の雑学メモ
ちなみに、将軍の食事も基本的には同じシステムでした。
ただ、将軍の場合は「ご飯のおかわりは3杯まで」などの細かいルールがあったと言われています。
また、食事中に魚の骨などが出ても、将軍は自分でお皿の端に寄せたりはしません。
そのまま床にポイッと落とすのが「将軍の作法」だったとか。
(もちろん、あとで家来が掃除します)。
まとめ
毎日10人前の料理が作られる大奥の食卓。
しかしその実態は、毒見のために冷めきった料理と、余り物で利益を得る役人たちの経済システムの上に成り立っていました。
「温かいものを、好きなだけ食べる」。
そんな庶民の当たり前は、将軍の妻にとっては何よりの贅沢だったのかもしれません。
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参考文献
- 大口勇次郎『消費者としての江戸城 』(お茶の水女子大学教育・研究成果コレクション “TeaPot”)
- 歴史の謎を探る会『江戸の食卓』






