江戸時代より前から富士山は神聖な山として信仰の対象となっていました。そのためか歴史上の有名人が一夜にして登ったという話がいくつもあります。

北斎 冨嶽百景_page010
北斎 冨嶽百景_page010

飛鳥時代の修験道の開祖である役小角(えんのおづぬ)が毎晩のように登っていたり、聖徳太子は馬が空を飛び富士山を飛び越えたと言った話が残っています。

両者とも600年代の人物であり、それほど昔から富士山が高い山で信仰の対象となっていました。そんな富士山のような高い山は日本では信仰の対象として女人禁制になることが多く、富士山もご多分に漏れず女人禁制でした。

これは当時の日本の仏教の女性は往生できないという考えがあったこと、神道としては山の神は女性で容姿があまり良くないために女が入ってくること嫉妬してよくないことが起きると考えられていたことから信仰の対象の山に女性が入ることは禁止されていました。

ほかにも修験者の修行に女性が邪魔だったからという理由もあります。


女性が禁止されている富士山ですが、それでも女性でも3合目までは登ることが出来ました。最初は2合目までだったのが時代の変化か3合目まで登れるようにはなりました。

それでも3合目ではまだまだ登っているとはとても言えない高さです。そんな富士山に登ることができない中で、1832年10月の江戸後期に女性が登る前例を作ろうと富士山の登頂に挑んだ女性がいます。

名前は高山たつ、彼女は富士山を登るために髷をして男装をしてまで登りました。その道は険しく天候もとても厳しい変化しました。登っていると暑くなり荷物を減らすために途中で上着を置いっていっくと、今度は雪が降ってくるという暑さから寒さへの急激な変化に襲われます。あまりにひどい天候のなかの登頂を成功させました。

それから江戸の時代が終わり、明治に入ってから1872年になってから女性の富士山登頂の許可がでました。

と、高山たつが富士山を登ってから40年近くの時がたってやっと女性でも富士山に登る事ができるようになりました。その間にイギリス大使の婦人が1867年に登頂していますが、日本の女性では1872年になってからのことでした。

男性が富士山に登るための富士講

女性の場合は登頂できるようになるまでの様々な紆余曲折がありますが、男性はといえば江戸時代の初期頃から始まる富士講と呼ばれる富士山信仰の会が生まれます。そこではみんなでお金を出し合って積み立てて富士山に登りました。

富士山は個人で登ることが出来ず、富士講を主催している御師(おし)の案内や富士山までの費用などのお金がかかるために富士講の中から選ばれた人が富士山へ参拝をした。

富士山に登れない人たちは富士塚へ

富士を登るための会があっても体の弱い人や老人には今のように整備されていないために厳しい山でした。そして女性や子供が富士山を登ることは出来ませんでした。そのために江戸の街にはそういった人たちのために富士山を登ったことと同じ御利益があるという富士塚が作られます。

富士塚は2階建てほどの高さの小山で、富士山に見立てて作られていてその小山を登る間に富士山から持ってきた石を設置することで富士塚に富士山を登るのと同じ御利益があるとして作られていました。

今の時代よりも信仰を大切にしていた時代です。富士山の山開きである6月1日に合わせて富士塚も登頂できるようになり、多くの人が富士塚に登りに来ていました。

富士塚の古いものでは1779年の高田富士などがあり、登ると頂上から富士山が見えていたと言われていますが、200以上あった富士塚の殆どが開発によって消えてしまっています。

現在も残っていても、富士塚よりも高い建物が周りを囲っているために現在では当時の景色を見ることは出来ません。