日本人にとって、富士山は今も昔も特別な存在ですよね。
一生に一度は登ってみたいと思う人も多いのではないでしょうか。

しかし江戸時代、富士山は「女人禁制(にょにんきんせい)」とされ、女性が登ることは許されていませんでした。

今回は、そんな掟を破り、「男装」をしてまで登頂を果たした女性と、登れない人々のために江戸の町に作られた「ミニチュア富士山」について解説します。

この記事の要点

  • 江戸時代の富士山は、女性は2合目までしか登れなかった
  • 高山たつという女性が「男装」をして初の登頂に成功した
  • 登れない人のために、江戸市中に「富士塚(ミニ富士)」が作られた
葛飾北斎『富嶽百景』に描かれた富士山の様子
葛飾北斎『富嶽百景』(国立国会図書館蔵)

なぜ女性は富士山に登れなかったのか?

古くから山岳信仰の対象だった富士山。
飛鳥時代の役小角(えんのおづぬ)や聖徳太子にまつわる伝説が残るほど、長い歴史を持っています。

しかし、江戸時代において女性が登れるのは、せいぜい「2合目(のちに3合目)」まで。
そこから先は結界が張られ、女性の立ち入りは固く禁じられていました

その理由は、当時の宗教観によるものです。

  • 神道の理由: 山の神様は女性(木花咲耶姫)であり、容姿にコンプレックスがあるため、人間の女性が入ると嫉妬して祟りが起きる。
  • 日本の仏教の理由: 当時、女性は穢(けが)れがあるとされ、修行の場にふさわしくないと考えられていた。
  • 現実的な理由: 険しい山での修行に、女性が混ざると妨げになる。

今では考えられない理由ですが、当時はこれが常識だったのです。

掟破りの挑戦者! 男装して登った「高山たつ」

そんな厳しい掟に挑戦した一人の女性がいました。
名前は「高山たつ」と言います。

江戸時代後期の1832年(天保3年)。
男女平等を願っていた彼女は、「女性も富士山頂へ行けるはずだ」と前例を作る決心をします。

髷(まげ)を結い、男の格好で…

彼女がとった手段は、なんと「男装」でした。

髪を男性のように髷に結い、男物の着物を着て、男性たちに混ざって登山を開始。
その道のりは過酷そのものでした。

登り始めの暑さで荷物を捨てれば、山頂付近では雪が降るほどの寒さに襲われます。
しかし彼女は、急激な天候の変化にも負けず、見事に登頂を成功させました。

これが、記録に残る日本女性初の富士山登頂です。

その後、女性の登山が正式に解禁されたのは、明治5年(1872年)のこと。
たつが命がけで登ってから、実に40年後のことでした。

庶民の夢を叶えるテーマパーク「富士塚」

高山たつのような例外はありましたが、ほとんどの女性、そして体の弱いお年寄りや子供にとって、富士登山は夢のまた夢です。

また、男性であっても、富士登山はお金がかかります。
当時は「富士講(ふじこう)」というファンクラブのような集まりでお金を積み立て、選ばれた代表者だけが登りに行くのが一般的でした。

「自分はいけないけれど、せめて富士山のご利益が欲しい!」

そんな人々の願いを叶えるために江戸の町に作られたのが、「富士塚(ふじづか)」です。

高さ数メートルのミニチュア富士山

富士塚とは、神社の境内などに作られた人工の小山のこと。
高さは2階建ての建物くらいですが、そこには本物の富士山から運んできた溶岩石(黒ボク石)が埋め込まれていました。

ルールは簡単。
「この富士塚に登れば、本物の富士山に登ったのと同じご利益がある!」

まさに、江戸時代のVR体験施設であり、テーマパークです。
これなら、女性でも子供でも、足腰の弱いお年寄りでも、気軽に「富士登山」ができます。

毎年6月1日の「山開き」の日には、多くの庶民が近所の富士塚に押し寄せ、行列を作って登っていたそうです。

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今でも登れる「江戸の富士山」

江戸時代、江戸市中には200以上の富士塚があったと言われています。
開発によってその多くは消えてしまいましたが、東京都内には今でもいくつか現存しています。

特に有名なのが、千駄ヶ谷の「鳩森八幡神社(はとのもりはちまんじんじゃ)」にある富士塚(千駄ヶ谷富士)です。
1789年に作られた都内最古の富士塚で、今でも誰でも登ることができます。

当時の人々の信仰心を感じに、プチ登山をしてみるのもおすすめですよ。

まとめ|誰もが憧れた日本一の山

女人禁制という厳しいルールがあったからこそ、男装してまで挑んだ女性の情熱や、身近な場所にミニチュアを作ってしまう庶民の知恵が生まれました。

形は違えど、江戸の人々が富士山に寄せる想いの強さは、今の私たちと変わらないのかもしれません。

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参考文献