戦乱の世が終わり、平和になった江戸時代。
参勤交代で大名行列が往来し、庶民の旅もブームになると、道路の整備が急務となりました。
幕府は「五街道(ごかいどう)」を定め、並木や一里塚のある立派な道路計画を打ち出します。
しかし、その広い道路の掃除や手入れは、一体誰がやっていたのでしょうか?
実は、幕府が直接掃除をしていたわけではなかったのです。
今回は、江戸のインフラを支えた「五街道」の仕組みと、現場で汗を流した人々について解説します。
この記事の要点
- 江戸と地方を結ぶ「五街道」が整備された
- 幕府は「並木」や「一里塚」のルールを決めただけ
- 実際の掃除や整備は、近隣の村人や「道番人」が行った

江戸をつなぐ大動脈「五街道」とは
多くの人や荷物を運ぶため、幕府は江戸(日本橋)を起点とした5つの主要道路を整備しました。
これを「五街道」と呼び、1659年からは幕府の「道中奉行」が直接管轄しました。
【江戸の五街道】
- 東海道: 海沿いを通って京都へ向かう大動脈。
- 中山道: 山道を通って京都へ向かう道。
- 甲州街道: 江戸から甲府(山梨)へ向かう道。
- 日光街道: 東照宮のある日光(栃木)へ向かう道。
- 奥州街道: 東北方面(福島・白河)へ向かう道。
これ以外の道は「脇街道(わきかいどう)」と呼ばれ、勘定奉行や各藩が管理していました。
幕府が打ち出した「道路政策」
幕府は、街道を立派に保つために様々なルール(仕様書)を定めました。
- 並木: 道沿いに松や榎(えのき)を植えて日陰を作る。
- 一里塚: 1里(約4km)ごとに目印の塚を作る。
- 宿場機能: 各宿場に人足(スタッフ)100人、馬100匹を常備する。
- 定額制: 荷物を運ぶ料金(駄賃)を公定価格にする。
こうしてハード面の計画は完璧に作られましたが、問題は「誰がそれを維持管理するのか」です。
「掃除するのはお前たちだ!」村人の負担
幕府は「こうしなさい」と命令は出しますが、役人がほうきを持って掃除に来てくれるわけではありません。
実際の整備や掃除は、街道沿いの宿場や、近隣の村々の人たちに割り当てられました。
これを「掃除丁場(そうじちょうば)」と言います。
村人たちは、自分たちの農作業の合間を縫って、道路の掃き掃除や草むしり、砂利入れなどを「義務」として行わなければなりませんでした。
給料が出るプロ職人「道番人(みちばんにん)」
そんな中、ユニークな制度を導入したのが加賀藩(石川県)です。
彼らは参勤交代で使う脇街道をきれいに保つため、1665年から「道番人」という専門職を置きました。
【道番人の待遇と仕事】
- 配置: 1里ごとに2名を配置。
- 報酬: 家(50坪の屋敷)と、給料(銀70目)がもらえる。
- 仕事: 毎日の掃き掃除、穴埋め(砂入れ)、水はけの管理、雪かき、並木の手入れ。
ただのボランティアではなく、「家と給料」を与えて責任を持って管理させたのです。
加賀百万石と言われるだけあって、インフラ維持への意識の高さがうかがえますね。
💡 やさしい江戸案内の雑学メモ
なぜ街道には「松」が植えられた?
箱根の松並木などが有名ですが、なぜ松や榎(えのき)が選ばれたのでしょうか?
理由は大きく3つあります。
- 日陰を作る: 夏の暑い日差しから旅人を守るため。
- 根が張る: 木の根が堤防の役割を果たし、道が崩れるのを防ぐため。
- 目印になる: 雪が積もっても道の場所がわかるようにするため。
見た目の美しさだけでなく、実用的な意味があったのですね。
まとめ|綺麗な街道は誰かの汗の結晶
私たちが時代劇で見る、整備された美しい街道。
その裏には、幕府の厳しい命令と、それに応えて毎日掃除をしていた村人や道番人たちの苦労がありました。
いつの時代も、インフラを支えているのは現場の人々なのですね。
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