江戸時代には全国の街道に整備されたのが一里塚ですが、どんな凄い姿をしているかと思いきや約.7メートルほどの小山に土を盛りその上に榎などの木を植えた目印でした。

9メートルの道幅の左右に9メートルの一里塚があればそれはとても目立つものだった。

現在でも一里塚は信仰の対象や歴史的な記念碑、成長した木の保護ということで残っている物も意外と多く、特に誰も気にせずに運良く残っている塚を旧街道でみることができるかもしれない。

本来は一里塚は道を挟んで2対のものですが発展している街では片方だけ道幅を広げるために削ってしまい一対だけ記念に残されていりします。

 

江戸時代に整備された一里塚

一里塚は街道沿いに作られたが、基本的には3.927キロメートルごとに一里塚は設置されました。さまざまな理由があったのでしょうが作った理由として今まで京や大阪といった近畿地方が日本の中心になっていたのを江戸の日本橋を起点として一里塚を設置することで江戸の存在を意識させたのかもしれません。

 

家康が子供の秀忠に
「これからは江戸が日本の中心になるから目印つけてこい」
とでもいったのかもしれません。

 

街道への一里塚の整備を始めたのが1604年の3月4日から行われました。そして江戸の主要街道である東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道の5街道に完成するまでに8年の歳月がかかりました。

 

現在のようにカーナビのような道案内がある我々にはわかりづらいですが当時はなくてはならない街道の目印でした。今でいう道路の掲示板と同じように道を教えてくれるものが一里塚でした。。

 

江戸時代以前はそれほど旅が行われる時代ではなかったので道もあまり整備もされていません。そんな中で一里塚は道に迷わないための目印であり、旅人が休憩するための場所であったり、江戸までなん里といった石碑があったり、次の宿場までの目安とすることができました。

 

ちなみに、初めて道に一里塚のような目印が置かれたのは平安時代の末期で奥州の白河の関から陸奥湾の道といわれています。

江戸時代に街道を利用するといえば参勤交代ですが行われるようになるのが1636年以降のことなのでつながりはないとは思いますが、江戸へ武士がはせ参じるための目印といういとはあったのではないでしょうか。