江戸時代の子供はある程度の年齢になると江戸や大阪など様々な場所で奉公に出されて丁稚として働くことがありました。

商家などで働けて朝昼晩と美味しい食事も出るから実家の農家で働いているより幸せだな何てことはありません。丁稚はなかなかつらいお仕事で朝の早くから夕暮れまで働いていました。

まともな休みも盆と年末の2回程度と場所に差はあれど大変だったようで、出てくる食事は江戸のような都会なら白米が食べられるのですがおかずは味噌汁だけ運が良ければお漬物がつく。

なかなか辛いお勤めだったようです。

それに比べて実家の農家も大変で、食事に白米が出ることはほぼありませんでした。機械のない時代なのですべてが手作業なために大変な苦労があります。

まぁ、それでも丁稚に比べれば休みは多かったり、死亡率も丁稚に行った人のほうが約1.5倍ほど高かったようですがどちらも子供からすれば大変なお勤めでした。

義務教育もないので中学生ぐらいの子供が給料もなく働いている時代がありました。

子供たちが伊勢を目指す抜け参り

12歳になり丁稚として働いている弥太郎が毎日考えることは
「毎日毎日、働いてばっかりで嫌になるわ。どうにか働かなくていい方法はないものかな?」

 

と思ってしまうのも無理からぬことですが、丁稚として働くのも生活するのも同じ場所で逃げ場がない。

そんな時に「東海道中膝栗毛」のお話を聞き、弥次さんと喜多さんのようにお伊勢参りへと旅立つことを思いつきます。

こん感じで子供たちはお伊勢参りへと旅立ったのかもしれません。子供が親や奉公先へ無断で伊勢参りに行くことを『抜け参り』といいます。

弥太郎が影響を受けたのが「東海道中膝栗毛」は弥次さんと喜多さんという2人が江戸からお伊勢まで参詣するライトノベルのような江戸中期に描かれた滑稽本と呼ばれる読み物です。

 

さて、弥太郎は伊勢参りに行くといっても勝手に商家を抜け出していくわけですが、勝手に行方不明では問題があるので『天照大御神』と書かれたお札を奉公先(仕事先)の床の間か神棚に貼って旅立ちます。

 

子供たちが何も言わずに抜け出せば大きな問題になります。逃げ出したとなれば親元や紹介をしてくれた人へ迷惑をかけることになるのでお伊勢参りへ旅立ったという意思表示のアイテムとして『天照大御神』と書かれたお札を神棚や床の間へ貼って旅立っていました。

天照大御神がおられる場所は伊勢であることはこの時代の人は大抵知っていますので、その札が貼ってあることでいなくなった丁稚がどこへ向かったかがわかります。

間違っても朝も早くから歌舞伎見物に行ったんじゃないことが分かります。行き先が分かれば子供の足なので夜のうちに抜け出しても追いかけることはできますがこの時代では伊勢参りに行った子供を連れ戻すことができませんでした。

江戸時代では伊勢参りに行った者を連れ戻すことは伊勢参りを否定することにつながりました。たとえ江戸時代が武士の時代だとはいえども天皇にかかわり、また信仰心の強い時代では否定することはとんでもないことでした。

そのため『抜け参り』を行った子供は連れ戻されずにそのまま旅に出ることができました。

 

旅に出たはいいが弥太郎、お金がない。丁稚がもらえるお金などお駄賃程度で旅に必要なものは何も買えません。旅立つのに準備した道具は『笠』『柄杓(ひしゃく)』の2つのみ。2つをお供に東海道を上ります。

 

伊勢参りをすると奉公先を飛び出しても捕まりませんでしたが、丁稚の身分である子供はお金をほとんど持っていません。そのため急いでも1ヶ月近くかかる旅を続けることはできません。

そこで役立つのが『柄杓』です。柄杓は旅の途中で人々に恵んでもらうときに差し出すと米やお金を恵んでくれました。これは子供だけではなく無賃旅行をしている人も同じように柄杓で施しをいただいていました。

この文化は四国遍路八十八ヶ所巡りのお接待と同じで伊勢へ参詣するものや巡礼をする者に施すことでそのものと同じだけの功徳を積むことができるという考えが広がっていたようでこの時代ではそれほど珍しいこではなかったようです。

お接待が行われていた痕跡は現在でも伊勢の近くにのこっています。

 

 

さて、食べ物とお金はどうにかなった弥太郎、太陽も沈みそうなところ止まるところを探さないといけません。野宿も仕方がないができるなら雨露はしのぎたい。

運よく、さきほど貰った施しで薪代程度のお金になったので旅の最初ぐらいは良いところへと『木賃宿(きちんやど)』を見つけて夜を明かす。

 

旅の宿は東海道に設けられた宿場町を利用して足を洗って宿に泊まります。今のような宿ではなく基本的には雑魚寝で素泊まりで飯は持ち込みでした。

お金さえあればもっとましな宿に泊まることもできます。もちろんお金がない人のための宿もありました。

弥太郎が泊まった『木賃宿』はとても安価な宿で薪代と米を持ち込むことで宿泊することができました。この宿は弥太郎のような施しを貰って旅をしているような人々が利用していました。

そんな木賃宿でさえ利用できない人が頼みの綱にしていたのが『報謝宿(ほうしゃやど)』や『善根宿(ぜんこんやど)』といった功徳を積むために行っている善意の人々の家で一泊をさせてもらっていました。

 

旅を数日もすると弥太郎は伊勢参りをしている子供たちのグループを見つけます。弥太郎これ幸いとグループに混ぜてもらい一緒に伊勢を目指すことにします。

 

子供たちのグループに参加しましたが江戸時代に中期以降には旅に出る人が増えたとはいえ、行き倒れや追剥が出なかったわけではありません。危険がまだまだある旅のために旅行を男は町人でも懐へ入れられる短い刀を持つことが許されていました。

江戸時代中期になると人々にも余裕があってもなくても旅行へ行くようになります。江戸に住んでいて伊勢参りは一生に一度といわれていましたが、日帰りや日光東照宮のような数日で行ける場所への旅行はかなり行かれていました。

おまけ

子供が行く伊勢参りである『抜け参り』は江戸時代の有名人である勝海舟の父親も14歳のころに柄杓を持って旅をしていたことを『夢酔独言』という自伝にも描かれています。