「江戸時代、刀を持っていいのは武士だけ」。
これは歴史の授業で習う常識ですが、実は江戸の町には、武士でもないのに刀を差して闊歩する人々がいました。

それは、武家に仕える「奉公人(ほうこうにん)」たちです。

彼らは武士の部下として働いていますが、身分はあくまで町人や農民。
しかし、本来は許されないはずの刀を差し、我が物顔で町を歩く者が後を絶ちませんでした。

今回は、そんな奉公人たちの「身分を超えた帯刀」を禁じた御触書(法律)と、その背景にある江戸初期の荒々しい社会事情について紹介します。

「調子に乗るな!」幕府が出した禁止令

江戸幕府が開かれてからまだ20年ほどしか経っていない、1623年(元和9年)。
幕府は、刀を差して威張る奉公人たちを取り締まるために、次のような「御触書(おふれがき)」を出しました。

【禁止事項】
以下の格好をしている奉公人は取り締まる。

  • 太刀(長い刀)を差している者
  • 長い脇差(わきざし)を差している者
  • 朱鞘(しゅざや)を使っている者
  • 大鍔(おおつば)、大な四角い鍔をつけている者

【罰則】
違反した奉公人は「牢屋」に入れる。
その主人は、罰金として「銀子2枚」を支払うこと。

この内容を見ると、単に武器を持っていることだけでなく、赤色の鞘や大きな鍔など、「目立つ格好で力を誇示すること」を強く警戒していたことが分かります。

江戸時代の刀を持つ男性の浮世絵
豊原国周画。刀を持つことは、強さの象徴でもありました。

主人の罰金はいくら?

注目すべきは、刀を差した本人だけでなく、雇い主である「主人(武士)」にも罰金がある点です。
その額、銀子2枚。

当時の貨幣価値で換算するのは難しいですが、銀子1枚を約7万円と仮定すると、約14万円の罰金になります。
主人の管理責任を問うことで、上から押さえつけようとしたのです。

なぜ彼らは禁止されても刀を差したのか?

牢屋に入れられるリスクがあるのに、なぜ奉公人たちは刀を手放さなかったのでしょうか?
そこには、江戸初期特有の殺伐とした空気が関係していました。

1. 「なめられたくない」という暗黙の慣習

この御触書が出た1623年は、大阪の陣(1614年)からまだ8年。
世の中はまだ戦国時代の気風が色濃く残っており、町には浪人や荒くれ者が溢れていました。

そんな社会では、丸腰で歩くことは「弱者」と見なされます。
「自分の身は自分で守る」「なめられたら終わり」という意識が強く、庶民の間でも武器を持つことが「暗黙の慣習」として黙認されていた側面がありました。

特に武家奉公人は、荒っぽい現場で働くことも多く、護身のためにも刀が必要だと考えていたのです。

2. 威張るための暴力装置

もう一つの理由は、「威嚇(いかく)」です。
当時の江戸では、派手な格好をして暴れまわる「かぶき者」や、後のヤクザの原点となる「町奴(まちやっこ)」のようなアウトロー集団が現れ始めていました。

血気盛んな奉公人たちにとって、刀は単なる道具ではなく、「俺は武士の家来だぞ」と周囲を威圧し、肩で風を切って歩くためのアイテムでした。
彼らが徒党を組んで刀をちらつかせれば、町の人々は怖がって道を譲ります。
そんな「暴力的な優越感」に浸るために、あえて目立つ長い刀や派手な鞘を差していたのです。

💡 やさしい江戸案内の雑学メモ

「町人は絶対に刀を持てなかったの?」というと、実は例外もありました。

長い刀(打刀)は禁止されていましたが、短い「脇差(わきざし)」であれば、旅の護身用や、冠婚葬祭などの儀礼用として、町人が帯刀することは黙認されていました。
時代劇で親分や商人が短い刀を差しているのは、このルールに基づいているんですね。

まとめ

江戸初期の「奉公人の帯刀禁止令」。
それは、単なるルールの徹底ではなく、戦国の殺伐とした空気を断ち切り、暴力で威張る若者たちを抑え込むための治安対策でした。

「武力(刀)」ではなく「法」で世の中を治める。
この御触書からは、平和な時代を作ろうとする幕府の強い意志が見えてきます。

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参考文献

  • 楠木誠一郎『江戸の御触書』(グラフ社)