歌川豊国 あげまき 岩井粂三郎
歌川豊国 あげまき 岩井粂三郎

タバコは税金が上がったり、健康増進法で禁煙が広まったり、さらにコロナで肺に影響をもたらす煙草は命の危険があることから更に吸う人が減ってきた。

そんなタバコですが日本の記録に残っているタバコは1601年の徳川家康がスペイン系のフランシス会修道士が残した書物に伏見城で謁見した際に献上品として持ち込まれ、その中には煙草があった。

この時代の煙草は薬草として扱われていて、この時に家康は煙草の膏薬のことや煙草の種子のことを尋ねたという記録がある。

このときの家康は病気になっていたこともあるが、元々が自ら薬を作るほどの健康オタクだったこともあって薬と言われたタバコにも大変興味をしめした。

タバコの薬としての効能は、排尿促進、止血、消毒などが言われていた。ヨーロッパではペストが流行った時代には子どもたちも予防のためにタバコを吸っていたこともある。


元々がアメリカ大陸原産のタバコは日本には無いために外国から輸入していたために高価なものだった。それでも種が入ることで日本での栽培が行われるようになるとすごい人気で庶民に広がってく。

この時代のタバコは薬という扱いなのでタバコを吸う人が増えても問題ないように思えるが、幕府にとって都合の悪い問題が起きるようになる。

1,年貢米を作るのではなく、金になるタバコを作る農民が増えだしたことで年貢米に影響が出だした。

2,失火の原因となる

3,傾奇者(かぶきもの)と呼ばれるヤクザな連中が1m近いサイズの煙管を武器にして町中で暴れる問題が起きるようになった。


これらの問題から1609年(慶長14)の7月にタバコの禁止令が幕府から出される。しかし、この禁止令は効果がなく1616年には禁固刑、罰金刑の法令が出されることになる。

農家がタバコ作りに力を入れている問題

農家が米を作ることで幕府に年貢が入り、それが財政の柱となっていたのが江戸時代だった。そのため米以外の作物を作られると幕府としての収益に影響がでることから、農民にタバコの栽培を禁止した。

しかし、農民たちは金になる作物の栽培をやめるわけもなく、1612年にはバタコの売買や栽培を禁止して、売買をしている者を見つけた人に売買してた者の財産を見つけた者に与えるというお触れを出しているがそれほど効果もなかった。

タバコの火が原因で火事になる

現代ではあまり聞かないが昭和の中期頃までは、どこででもタバコが吸える時代だったことからタバコの火事で家が全焼したり、林が燃えたりと火事の原因となることがあった。

これは江戸時代も同じで、今のような紙タバコではなく煙管でタバコはあっという間に燃え尽きてしまうので火種になりそうもないが、それでもタバコが火事の原因となり、火あぶり刑にされた人がいる。

民家はすべてが木で作られているために火がつけば、あっという間に燃え広がることから乾燥する冬にはよく火事が起きていた。

そのため幕府としては火事が起こると無駄に金がかかるのでよくないということから規制をすると禁令の原因の一つとなった。

傾奇者が煙管を武器にして町中を暴れていた。

骨董集
骨董集


江戸幕府が誕生して間もなく、戦国の空気が残る時代であったこと、戦いがなく仕事もなく炙れていた下級武士たちが町で狼藉を働いていた。

同じく庶民からなるヤクザものたちも町中を彷徨いており、2つの勢力がぶつかり合うが、帯刀を許されていた武士たちに対抗するために常に持ち歩ける武器として巨大な煙管をつくり、武器として争いを起こしていた。

彼らのように反社会的な行動をするものたちをかぶき者と呼んでいた。

幕府はタバコの禁止令に火事などの原因を挙げているが、タバコが禁止になった一番の要素は傾奇者たちが煙管を武器にして暴れていることで治安の悪化を防ぐための方策だったように思える。

タバコは禁止令を出しても止まらないことからついにはタバコ道具に没収を行ったがこれには傾奇者たちが持つ煙管の没収の意味もあったかもしれない。


それから1651年には、幕府も諦めたのか家の中ではタバコを吸ってもいいという町触れがだされた。

タバコを吸うと死刑されることもある。

幕府がタバコを禁止するなかで、とりわけ厳しかったのが薩摩藩だった。日本のもっとも海外との交易が盛んだった薩摩藩は早い段階でタバコが渡っており、藩内でもタバコを吸う人たちも多くいたようである。そのためか厳しく取り締まられタバコを吸っている者に厳しい場合には死罪になることもあった。


薩摩藩と同じくタバコを吸う者を厳しく罰したのは知恵伊豆と呼ばれた老中・松平伊豆守信綱である。三代将軍徳川家光に「いにしへよりあまたの将軍ありといへども、我ほど果報の者はあるまじ。右の手は讃岐(酒井忠勝)、左の手は伊豆」と称されるほど人物。

彼は家中の者がタバコの火で自席を焦がしたことから首切りの刑するとタバコの火で焦がした跡と首切りの刑にした様子を板に描かせて邸内に目のつくところに貼り付けた。

それ以降、松平伊豆守信綱の周辺でタバコを吸う者は居なくなった。


薩摩藩が死罪にしてまで広めることを食い止めようとしたが、タバコを吸う人たちを止めることは出来ず、男女関係なくする人たちがいること、諸藩ではタバコに税をかけて禁止しない藩も出てくるようになったことからタバコは禁止されなくなっていた。