江戸の町でもっとも激務な仕事の一つが町奉行。朝から晩まで仕事に追われ、他の人に任せることが出来ない仕事が多く、罪人を入牢の申し渡しにはするときには奉行自らがおこない、大火の際には奉行自らが町火消たちの陣頭指揮をとったりと休む暇がありませんでした。そんな激務追われた人のなかには任期中に亡くなる人も少なくはなりません。

休む暇もない町奉行の任期はとても短く、テレビの時代劇で有名な遠山の金さんこと遠山景元は合計で10年、大岡忠相は19年ととても長く在任していましたが彼らは例外。

激務に追われた町奉行を努めた人は2年から4年もたたずに異動されることが多かったようで早い人では半年程度の人もいました。

そのためか、江戸に北南に奉行所が設置されたのが三代将軍家光の時代、それから江戸の終わりまでの約200年間で北町奉行が43名、南町奉行が50名とかなりの数になっている。

徳川家は家光からその後は江戸の終わりまでは12代続き、合計で15代で江戸時代が終わる。

北町と南町の奉行所が出来てから北町が43名、南町が50名、徳川家が12名と町奉行の入れ替わりがいかに多かったかがわかるのではないだろうか。


町奉行を辞める理由

町奉行を行うには激務なので体力が必要であることから体力の低下で辞める場合もあるが、町人を一手に管理する立場なために老中(会社で言えば重役)の方針に合わないことからの異動ということもあります。

遠山景元は老中である水野忠邦の天保の改革へ反対したために一度、町奉行を辞めさせられ、水野忠邦が失脚後に町奉行に復帰しています。

少し前の話ですが、日本で仕事をやめる理由のトップなのが職場での人間関係が1位でした。現代の日本人は給料よりも人間関係が原因で辞めるんだと思ったのですが、江戸時代もそう変わりません。

町奉行の仕事が続くかは人間関係が重要でした。北町と南町との2つの奉行があり、そこで市政のほとんどを決定しているので2つの案が出たとき町に2つの案のお触れを出すわけにはいきません。

先輩の奉行の案を採用するか、後輩の案を採用するかの問題になります。今と変わらず先輩に配慮する必要があるので市政では自分の意見が通りづらく、イジメもあったことから先輩である奉行には辞めてもらいたいと考えて手を尽くして辞めさせることがありました。

この辺りの行動は今も昔も人間関係で辞めたり辞めさせられたりは変わらないようで、異動するよりも異動させられる人もかなりいたようです。