地方から江戸へ働きに出てきた奉公人たちにとって、何よりの楽しみは食事でした。
故郷では雑穀（アワやヒエ）を食べていた彼らが、江戸では憧れの「真っ白なお米（銀シャリ）」をお腹いっぱい食べられたからです。
しかし、そんな贅沢な食生活をしているはずの彼らを、謎の体調不良が襲います。
足がむくみ、しびれ、最悪の場合は心不全で亡くなってしまう。
これが、江戸時代に大流行した都会の病「脚気（かっけ）」。
今回は、当時「江戸わずらい」と呼ばれ恐れられたこの病と、白米食の意外な関係について解説します。
江戸を出ると治る？ 謎の奇病「江戸わずらい」
この病気には、一つの不思議な特徴がありました。
江戸で寝込んでいた患者が、療養のために地方の実家へ帰ると、嘘のようにケロリと治ってしまうのです。
そのため、当時は「江戸の土や水が合わなかったのだろう」と考えられ、「江戸わずらい」と呼ばれました。
しかし、本当の原因は「土」でも「水」でもなく、彼らが喜んで食べていた「白米」そのものにあったのです。
贅沢が招いた「ビタミンB1」不足
脚気の正体は、現代医学で言う「ビタミンB1欠乏症」です。
ビタミンB1は、糖質（お米など）をエネルギーに変えるために不可欠な栄養素ですが、お米の場合、その成分のほとんどは「糠（ぬか）」の部分に含まれています。
地方の農村では、精米しきれていない「玄米」や「雑穀」を食べていたため、自然とビタミンB1を摂取できていました。
しかし江戸などの大都市では、精米技術が発達しており、糠をきれいに取り除いた「白米」が主食でした。
さらに、江戸は人口過密都市だったため野菜（副菜）の値段が高く、下級武士や奉公人の食事は「山盛りの白米、味噌汁、少しの漬物」という極端な偏食になりがちでした。
皮肉なことに、「白米をお腹いっぱい食べる」という江戸の贅沢こそが、栄養失調を引き起こしていたのです。
将軍さえも逃れられなかった死の病
この病は、貧しい人だけの問題ではありませんでした。
むしろ、徹底的に精米された「良いお米」を食べていた上流階級（将軍や大名）たちも、深刻な脚気に苦しめられました。
徳川将軍家でも、脚気は深刻な問題でした。
例えば、13代将軍・徳川家定や、14代将軍・徳川家茂は、脚気による心不全（脚気衝心）が死因の一つだったと言われています。
最高の権力と財産を持ちながら、現代なら数百円のサプリメントで治る病気で命を落としていたと考えると、栄養学のない時代の恐ろしさを感じます。
💡 やさしい江戸案内の雑学メモ
江戸っ子の大好物「蕎麦（そば）」は、実は脚気の特効薬でもありました。
蕎麦にはビタミンB1が豊富に含まれています。
当時の人々も、経験則として「どうも蕎麦を食べると調子が良いぞ」と気づいていたようで、脚気予防のために蕎麦屋に通う人もいたそうです。
まとめ
「江戸わずらい」こと脚気は、白米という美食文化が生んだ江戸の国民病でした。
地方に帰ると治ったのは、そこで食べる粗食（玄米や雑穀）のおかげで、不足していたビタミンが補給されたからです。
「美味しいものばかり食べていては体に悪い」。
江戸の人々の悲劇は、現代の私たちの食生活にも通じる教訓かもしれません。
あわせて読みたい江戸の食文化
脚気の原因となった白米ですが、江戸っ子はそれを美味しく食べることに情熱を注いでいました。
栄養満点の納豆汁も、ビタミン不足を補う重要なメニューでした。
参考文献
- 原田信男『江戸の食文化 和食の発展とその背景』（小学館）
