江戸時代の後期になると旅に出る庶民が増えてくるようになる。そこには歌川広重「東海道五十三次」や十返舎一九の滑稽本「東海道中膝栗毛」などが出版され、男性も女性も旅の道中記(日記)がいくつも残っている。
江戸時代は生きるの死ぬのといっぱいいっぱいの生活をしていたかとおもいきや庶民は旅をしてその記録や観光案内に使える浮世絵などが販売されるなどさまざまな記録が残っている。
とはいえ江戸時代の旅は現代人には、なかなかに過酷だ基本的に徒歩である。ひたすら歩く、険しい山道も歩く、川を超えるためにも歩くと今のようにすべての道が整備されているわけでもなく、まして自動車や自転車なんてものはありません。
歩く以外にも籠という人が担いで移動するという移動手段もありますが、お値段が高い、お金がいくらあっても庶民には手の出ない乗り物です。
現代人が整備をされた東海道53次が500Kmほどの距離なので、歩くとだいたい15日ぐらいとなるようである。1日に50kmはなかなか厳しいので40km前後を歩くとそれぐらいの時間がかかというイメージで良いと思われる。歩いた人のブログを読んで見てもそれぐらいの日にちが掛かっていた。
江戸時代の道路も整備が不十分の道を歩くだけで旅にでるとして、当時の人は東京(江戸)付近から大阪まで行って帰ると1ヶ月は掛かってしまいます。行くからには観光もしたいでしょうから2ヶ月ぐらいの日にちはかかるのが当たり前だった。
そんな長い旅に出る人は旅に出る前に知り合いや友達を招いて食事をしたりすることがありました。病院もない時代、旅先で怪我や病気になると簡単に死に至るので今生の別れとなってしまう時代だからこそ最後の別れのように別れを惜しんだようです。
そんな別れを惜しむ人々で行われる儀式として水を入れた盃を酌み交わすところもありました。この盃を酌み交わすという行為には共同飲食をともにして同じ仲間であり、旅に出る者に故郷で仲間が待っていることを伝え、無事に帰りを願ったのかもしれません。
この行為は一味同心(いちみどうしん)、または一味神水(いちみしんすい)と呼ばれる村を作ったり一揆を起こしたりと一致団結をして行うことを神に誓約する儀式とおなじように離れていても仲間であることを誓っていたのかもしれない。
まぁ、一味同心はあまり一揆などの公儀への反発行為に利用されるために禁止されたりします。
夜の別れが終わると旅立ちは夜明け前には旅立ちます。
電気もなく人工的な明かりがほとんどない時代なので暗くなったらあとは寝るだけ、目覚めも早く起きると日も昇らない4時ごろには出発をします。早く出発しないと夜更けまでには宿場までたどり着かない場合もあるためだったりします。そんな旅立ちにも見送りの人や江戸からの旅なら品川宿まで一緒についてくる人もいたようです。
品川宿は江戸の吉原にも負けない歓楽街でもあったことから目的は別れよりもそちらにあったのかもしれません。
さて、あなたが旅立ちの朝に靴を履くと靴紐がいきなり切れたらどうしますか?
気にしない人もいるかも知れませんが、旅に出るのをやめないにしても縁起が悪いなと思う人はかなりいるのではないでしょうか。現代人の我々でもその様に感じるのですから、江戸時代のまだまだ信仰のある人たちは迷信を大切にしていました。
靴、江戸時代なので草鞋の紐が切れるようなことがあれば旅の立ちを延期したでしょう。旅立ちの日付も「仏滅」のような吉凶を意識して縁起のよ言う日取りを選び、出発の場所や方角を変えるために遠回りをしたりとかなり縁起を大切にしていたようです。
平安時代の貴族たちも人の家に向かうときに吉凶を気にして、陰陽師に向かいう方角の吉凶を調べ、縁起が悪ければ一度違う人の家を訪ね方角を変更してから目的の家にいくということをしていたので、旅に出る方角を遠回りをしてでも変更するというのは古くからある風習が時代が下って庶民にも根付いたのかもしれません。
そして最後に、無事に帰ってくる事ができるように回文(かいぶん)を読む人もいました。回文とは前から読んでも、後ろから読んでも同じ様に読むことができる言葉遊びのようなモノで、575で詠まれる和歌で有名なのが作品が
「長き夜の 遠の睡ねむりの 皆目醒めざめ 波乗り船の 音の良きかな」
「なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな」
と前から後ろから読んでも同じ様に詠める歌。
前からも後ろからも詠める回文を3回口ずさむことで、旅の安全な行き帰りを願ったて旅立ったのでしょう。
旅の前の夜の別れ、旅立つときの縁起を大切にはしていたようですが、江戸時代の旅がすべてこのようであったわけでなく、お金もなく夜逃げ同然に旅に出る人、子供の抜け参り、柄杓だけをもった無銭旅をする者もいたのでそんな人達は別れをおしんだりもせずに旅に出てしまう人たちいました。