妙好人伝全集みょうこうにんでんぜんしゅう 古昔こせきの巻まき 第一編だいいっぺん

大正4に出版された妙好人伝全集 古昔の巻 第1編から始まる。
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⇒妙好人伝全集を読む|古昔の巻 第一編・『はしりがき』から『目次』【現代表記・総ルビ】

 

山城国やましろのくに

一いち 七郎右衛門しちろうえもん

享保年中きょうほうねんちゅう京都きょうと六条油小路ろくじょうあぶらのこうじに高槻屋七郎右衛門たかつきやしちろうえもんという信者しんじゃがあった。入道にゅうどうして法名ほうみょうを自休じきゅうと呼よんだ。

或年あるとしの九月二十八日くがつにじゅうはちにち、大谷おおたにの報恩講ほうおんこうに参まいり御法事ごほうじ終おわりて、大谷おおたにの茶所ちゃどころに休息きゅうそくして頓死とんしし果はてた。

所ところが醍醐だいごの里さとに弟おとうとがあったが、その日ひの七ツ時ななつどき、自休じきゅう、弟おとうとの宅たくへ尋たずねて来きた。弟おとうと迎むかえて「思おもいよらざる御出おいである。いざこなたへ御上おあり下くだされ」と案内あんないした所ところが自休じきゅう庭にわへ立たちながら、開山かいさんの御召おめしによりて参まいるなり跡あとをしたひて法ほうを味あじわえと詠えいじてそのまま帰かえって行いったから跡あとより追おいかけたるに其形そのかたちを見失みうしなうてしまった。人々ひとびとあやしみ京きょうへ使つかいをつかわし、安否あんぴを尋たずねたるに京きょうよりは自休じきゅう頓死とんしのよしを告つげて来きた。そして両使りょうし途中とちゅうにてゆき合あったという。不思議ふしぎな事ことであった。

二に さと女おんな

山城国やましろのくに宇治郡うじぐん山科やましなの音羽村おとわむらに木屋清右衛門きやせいえもんという人ひとがあった。その娘むすめさとは生質柔和しょうしつにゅうわにして幼少ようしょうの時ときから父清右衛門ちちせいえもんに従したがうて、法座ほうざへ参詣さんけいし、ふかく仏法ぶっぽうの理ことわりを明あきらめ、常つねの遊戯ゆうぎにも仏前荘厳ぶつぜんしょうごんの真似まねをし、友達ともだちをあつめて参詣さんけいさせ、平生へいぜい聞覚ききおぼえたる地獄じごくの苦相くそう、また極楽ごくらくの体相たいそうなどを物語ものがたり、念仏ねんぶつをすすめて居いた。

父母ふぼも共ともに仰信ぎょうしんの者ものであったから深ふかく是これを喜よろこび、法座ほうざとさえいえば風雨ふううの中なかをもいとわず、この子こをいざなって参詣さんけいしたから、いよいよ信心堅固しんじんけんごにして、父母ふぼも是これがために引立ひきたてられ、益々ますます喜よろこびのいろを増ますようになったこの子こ十七歳じゅうしちさいの春はる、京都きょうと新車屋町しんくるまやちょう伊勢屋定七いせやさだしちという八百屋商売やおやしょうばいの家いえに入嫁にゅうかして、後のちも念仏勤行ねんぶつごんぎょう怠おこたらず、よく舅姑しゅうとしゅうとめに仕つかえ、いささかも争あらそう事ことなくまた町内ちょうないでも貧まずしきものが野菜やさいを調ととのえに来くる時ときは利分りぶんを薄うすくして多おおくこれに売うり与あたえた。この事こと、近隣きんりんに評判ひょうばんし、商あきない日頃ひごろに十倍じゅうばいするに至いたった。だから姑しゅうとめもこれを喜よろこび、まことの子このごとく愛あいていつくしんだので、いよいよ家内睦敷かないむつまじく、日々ひびに商あきない繁昌はんじょうし、家いえ益々ますます栄さかえるようになった。

所ところが嘉永二酉年正月かえいにとりどししょうがつ、風かぜの心地ここちとて打臥うちふしたるに数日すうじつ頭あたまをもたけず、医療いりょうも手てを尽つくせどもそのしるしなく、親里おやざとへ帰かえりて養生ようじょうしたいというから早速さっそく駕籠かごを雇やとい、音羽村おとわむらに送おくりたるに、次第しだいに体からだが疲つかれて其年そのとしの閏四月十六日うるうしがつじゅうろくにち。朝あさ俄然がぜんとして念仏ねんぶつの息いき絶たえ果はてた。すべて病中苦痛びょうちゅうくつうを厭いとわず、昼夜ちゅうや称名念仏しょうみょうねんぶつ怠おこたる事ことなかった。命終みょうじゅうの後のち胸むねのあたり少すこしあたたまりがあったのでまず仏前ぶつぜんに据すえ置おき親族しんぞくにも告つげ、それぞれの用意よういを調ととのえた。

すると二時ふたとき計ばかりして、うというて起おきあがったから、父母ふぼをはじめ、打寄うちよりたる親族しんぞく打驚うちおどろき、屏風びょうぶを引ひき明あけてみれば、こは如何いかに今いままでとは事変ことかわり顔色かおいろ平生へいぜいのごとく、さらに苦痛くつうの様さまも見みえず、満面まんめんに笑えみを含ふくみ、言説ごんせつさわやかにして語かたるよう、妾わらわ、いま命終みょうじゅうしたと思おもうて目めをひらきみれば、金銀きんぎんをちりばめたる高たかさ数十丈すうじゅうじょうの楼門ろうもんのごときものの前まえへ行いきました。

暫しばらくして楼門ろうもんが両方りょうほうへ開ひらくように見みえましたが瑠璃るりの大地だいちには百宝ひゃっぽうの楼台ろうだいがあり、七宝しっぽうの樹木じゅもくの間あいだには鸚鵡おうむ・舎利しゃり・迦陵頻伽かりょうびんがのもろもろの鳥とりありて、微妙みみょうの法音ほうおんをさえずり、無量むりょうの菩薩ぼさつその中なかに遊戯ゆうげし、また八功徳はっくどくの池いけには五色ごしきの蓮華れんげが咲さき乱みだれ、無辺むへんの聖衆しょうじゅそのうえに遊あそびたのしみ、正面しょうめんには金色こんじきの山やまのごとくなる仏身ぶっしん、百宝ひゃっぽうの華台けだいに端座たんざして説法せっぽうましまし、無量無辺むりょうむへんの菩薩聖衆ぼさつしょうじゅ、百重千重ひゃくじゅうせんじゅう囲饒いにょうして聴聞ちょうもんし給たまうありさま、娑婆しゃばにありて聞ききたるには百千万倍ひゃくせんまんばいこえすぐれたる体相たいそうをまのあたりに拝おがみ奉たてまつり、ありがたさいわんかたなく、ただひれふして居いました所ところへ一人ひとりの菩薩ぼさつ、我前わがまえに来きたり給たまい汝なんじよう来きて呉くれた。善哉善哉ぜんざいぜんざいとの給たまう御声おこえの殊勝しゅしょうさ、有難ありがたさ何なににたとえんようもありませぬ。

暫しばらくして宣のたまうには汝なんじが父母ふぼは信心堅固しんじんけんごのものである。命終みょうじゅうせば必かならずこの所ところへ生しょうずるであろうが汝なんじが姉あねは不信ふしんのものだから臨終りんじゅうの後のちは地獄じごくへ堕在だざいすることだろう。然しかし捨すてがたき宿縁しゅくえんあれば、はやく仏道ぶつどうに帰きし一念いちねんの信心しんじんをおこさば、必かならず一蓮託生いちれんたくしょうすることが出来できようからこの事ことを告知こくちせて来こよ。汝なんじが往生おうじょうは今日きょうであるから早はやく来これと仰おおせらるるかとおもえば、夢ゆめの覚さめたるがごとくである。あらきたなや、かかる不浄ふじょうの娑婆しゃばには片時かたときも止とまることは出来できぬとて、目めを覆おおうた。

そこで父母ふぼをはじめ、あり合あう人々ひとびと、この事ことをきき、且かつは喜よろこび、かつは驚おどろき、異口同音いくどうおんに称名念仏しょうみょうねんぶつした。かく物語ものがたりの後のち二時ふたときばかり巳みの下刻げこくと覚おぼしき頃ころ、俄にわかに目めを開ひらき、あれ見みられよ。聖衆しょうじゅが迎むかえに御出おいで下くださる。今生こんじょうの対面たいめんもこれまでである。極楽浄土ごくらくじょうどで半座はんざを分わけて待まち申もうしましょう。父母ふぼをはじめみなみな早はやく来きて下くだされと高声こうしょうに念仏三遍ねんぶつさんべん唱となえて息いき絶たえ果はてた。

かくて父母親族ふぼしんぞくもなげきの中なかにも、かかる奇瑞きずいをまのあたり見聞けんもんし、目出度めでたく往生おうじょうを遂とげた事ことを喜よろこび同村どうそん光照寺こうしょうじへ葬送そうそうし、法名ほうみょうを釈尼妙華しゃくにみょうけと名なづけた。

三さん きく女おんな

山城国やましろのくに上狛村かみこまむら七兵衛しちべえ妻つまきくといえるは、殊ことの外ほか仰信ぎょうしんの人ひとで、常つねに称名念仏しょうみょうねんぶつ怠おこたりなく、御法座ごほうざとあれば、慰なぐさみすすみて参詣さんけいをいたし、又また世間せけんの交まじわりも柔和にゅうわで人ひとにも愛あいせられたので、其夫そのおっとの七兵衛しちべえも随喜ずいきして、弥陀みだの本願ほんがんを信しんじたてまつり、国法こくほうの掟おきてをも如実にょじつに守まもったから御領法ごりょうほうから褒美ほうびを頂戴ちょうだいした事こともあった。尤もっとも妻つまのきくは一方ひとかたならぬ信者しんじゃで、厚あつく御恩ごおんを喜よろこんだが、安政五年十二月あんせいごねんじゅうにがつの初はじめから病気びょうきとなりて、十六日じゅうろくにちに六十三歳ろくじゅうさんさいを以もって往生おうじょうした。

所ところが二日目ふつかめに蘇生そせいして家内かないの者ものを始はじめ、集あつまりたる人々ひとびとに向むかいていえるようは、私わたしは仕合者しあわせもので命終みょうじゅうるなり、極楽ごくらくへ往生おうじょうを遂とげましたから扨さてて其御浄土そのおじょうどは、黄金おうごんの大地だいちで種々しゅじゅの妙花みょうけ降ふり下くだりて、其美そのうつくしきこと言いうべき言葉ことばもありませぬ虚空こくうには常つねならぬ美々敷烏びびしきとり、微妙みみょうの声こえをして囀さえずる、音おともきけば、何なんとなう心こころ開ひらけて有難ありがたことかぎりがない。向むこうの方ほうをながめると黄金おうごんの山やまを飾立かざりたてたように見みえ給たまうは即すなわち浄土じょうどの御主おんあるじ、阿弥陀如来あみだにょらい、光明こうみょうを放はなちて十方世界じっぽうせかいを照てらして居おらるる。又また右みぎと左ひだりに並ならび給たまうは観音勢至かんのんせいしの二菩薩にぼさつである此三尊このさんぞんを拝おがみ奉たてまつる有難ありがたさ、何なんと譬たとえんかたもありませぬ。扨さてまた宝たからづくしの宮殿楼閣くうでんろうかく、数かずもかぎりもなく立たちならびてしかも七宝しっぽうの欄干らんかんのかざりがある。

宝たからの樹き、花咲はなさき満みちて、その香かんばしき事こというばかりもない。風鈴ふうりんありて風かぜそよげば微妙百千種みみょうひゃくせんしゅの音楽おんがくがきこえて、その面白おもしろさ尊とうとさ、譬たとえんにものもない。八功徳はっくどくの池いけには、五色ごしきの蓮華れんげ鮮あざやかに開ひらきて、花はなごとに五色ごしきの光ひかりがある。池いけの底そこは七宝荘厳しっぽうしょうごんになって居いる。菩薩聖衆ぼさつしょうじゅ光明赫奕こうみょうかくえきとして蓮はすに乗のり給たまえば蓮華れんげ自然じねんと池中ちちゅうをめぐり、手てに掬すくわんとしたまえば、水みずおのずから思おもう所ところへ上あがりて、只ただ何なにごとも心こころに思おもうままである。風かぜそよきて宝池ほうちの波なみを吹ふきあぐれば、水みずよりは自然しぜんの音楽おんがくがあらわれて、面白おもしろさ、有難ありがたさ、申もうすもなかなかおろかである。

扨さてて宮殿楼閣くうでんろうかくの中なかからば先さきに往生おうじょうし給たまうた菩薩達ぼさつたち、美うつくしき衣ころもを召めし花はなをかざりたる装よそおいで、さも嬉うれしげに大勢おおぜい打連うちつれて、如来にょらいを囲遶いにょうなされ御説法ごせっぽうを聴聞ちょうもんして喜よろこび給たまうもあり、或あるいは菩薩ぼさつたち手てに楽器がっきをとり、音楽おんがくを奏かなして楽たのしみ給たまえば、百味ひゃくみの飲食おんじきは自然じねんにそなわりて快楽けらくし給たまうものもある。或あるいは美うつくしき天人てんにん、宮殿くうでんに乗のり虚空こくうをめぐるもあり、又または菩薩聖衆ぼさつしょうじゅたち色々いろいろ供養くようして回まわり玉たまうもあり、その結構けっこうさ申もうし尽つくし難がたい。殊ことに有難ありがたいのは我身わがみをながむれば、今いままで病やまいの床とこにありて、垢あかによごれ、汚穢不浄おえふじょうの姿すがた、歩行ほこうも叶かなわぬ不自由ふじゆうな身みながら、息引取いきひきとるなり、蝉せみのもぬけを見みるごとく、彼浄土かのじょうどに往生おうじょうせば、十方世界じっぽうせかいを見みる事こと、鏡かがみにうつすがごとく明あきらかである。

然しかるに此娑婆このしゃばを見渡みわたしたるに毎日毎日まいにちまいにち死しぬる人ひとは幾千万人いくせんまんにんと数知かずしれぬに浄土じょうどへ参まいる人ひとは至いたって希まれであるからいずれも今日きょうから後生ごしょうの一大事いちだいじに心こころをかけて、本願ほんがんの御謂おいわれを明あきらかに聴聞ちょうもんして、追附おっつけ参まいらせて下くださるる物ものをと喜よろこび暮くらして下くだされ、慇ねんごろに告つげたので、皆々みなみな随喜ずいきの信しんを生しょうじ、涙なみだにむせんで喜よろこんだ。夫それよりきく女おんな、苦痛くつうもなく、三日目みっかめに眠ねむりがごとくで、目出度めでたく往生おうじょうを遂とげ果はたした。

四し おくり

京都きょうと六角通ろっかくどおりに藤屋又兵衛ふじやまたべえという人ひとがあった。其女そのむすめをお栗くりと名なづけて幼稚ようちの時ときから賢かしこく、常つねに父ちちの正信偈和讃しょうしんげわさんなど唱となうるをきき覚おぼえてよくこれを誦じゅした。

かくて父ちちも慈愛じあいあさからなかったが、享保三年戌きょうほうさんねんいぬの十一月四日じゅういちがつよっかの頃ころから痘瘡とうそう重おもくして医術いじゅつも及およびがたくなったのでこの女むすめ初はじめのほどは死しぬべきことを悲かなしんだが、後のちには助たすかるまじと知しるより父ちちに語かたっていうよう、私わたし今日きょうまで後生ごしょうの一大事いちだいじをうかうかと聴聞ちょうもん致いたして居いましたのに今いま此場このばにいたりては外ほかにたのみもありませぬ。只ただ仏ほとけの御慈悲おじひを信しんじて浄土じょうどへ参まいりたく思おもいまするので、その御義おんぎをねんごろに教おしえて下くだされというので、父母ふぼもその志こころざしの有難ありがたきを感かんじて涙なみだながら勧すすめるようは、この仏ほとけをたのみ奉たてまつるというはなにのむつかしき事こともない。

ただ六字ろくじの御義おんぎをよくきけば衆生しゅじょうの勤つとめる願がんも行ぎょうも如来にょらいの方かたに御おつとめ下くだされて、夫それを衆生しゅじょうにあたえて助たすくるとある御意おこころをまうけにするばかりで早はやくも摂取せっしゅの光明こうみょうにおさめ取とるとあるからは疑うたがいなく信しんじまいらせて只ただその上うえは御おたすけ下くださるる事ことの有難ありがたやと御恩ごおんの称名しょうみょうを喜よろこぶばかりであるとねんごろに教おしえた所ところ女むすめ、立所たちどころに信心歓喜しんじんかんぎの思おもいふかくなりて云いうようは、痘瘡とうそうが口くちの中なかに出でて、念仏ねんぶつを称となえる事こともなりがたい。

只ただたすけ給たまう事ことの嬉うれしやありがたやと心こころに喜よろこびてはいかがであるかといえば父母ふぼの言いうよう、なるほど心こころに念ねんじて喜よろこべば念声是一ねんしょうぜいつとも聴聞ちょうもん申もうした事こともあれば同おなじ事ことであろうぞといえば、女むすめうれしき気色けしきにて息苦いきぐるしき中なかからも南無阿弥陀仏なむあみだぶつ、南無阿弥陀仏なむあみだぶつと言いう声こえが聞きこえたが同九日どうここのかの夜よるから殊ことに苦くるしみつよくなり、如来様にょらいさまの尊像そんぞうを拝おがみたいというので、仏壇ぶつだんの戸とを開ひらけば、頭こうべをたれて尊敬そんけいの顔かおをあらわし、恭敬くぎょうの思おもいことにあさからなかったが、其夜そのよいささか眠ねむるが如ごとくして、忽たちまちに目めをさまし、父母ふぼ及および傍かたわらなる同行どうぎょうの人々ひとびとに対たいしていうよう、只今ただいまありがたき事ことがあった。

阿弥陀如来あみだにょらいの来きたらせ給たまうて我われにこのうつくしき玉たまを下くだされた、これ見み給たまえとて手てをひらき見みすれば本もとより凡眼ぼんげんの見みるべきものではなかったが傍かたわらなる人々ひとびとのいえるよう、それこそ汝なんじが信心しんじんの深ふかきによりて仏様ほとけさまから賜たまわった信心しんじんの宝珠ほうじゅと云いうものであろう。

弥いよいよたのもしく思おもいて喜よろこべよというに、又またかの女むすめの言いうよう、只今ただいままたかくの如ごとく仏ほとけの光明こうみょうの眼前がんぜんにかがやき給たまうを皆人みなひとは拝おがまれなかったが、扨さてもありがたきことであったと感心かんしんふかきあまり、南無阿弥陀仏なむあみだぶつと称となえて、心こころやすく名号みょうごうの唱となえらるるようになったから、いよいよ不思議ふしぎなる事ことであると自みずからも喜よろこび、他ほかの人々ひとびとも感かんじて居いたがそれより称名しょうみょうの声こえたえずして同十二日どうじゅうににちの暁卯あかつきうの時ときばかりに、病やまい急きゅうになりて命終みょうじゅうせんとするとき、今いままでは横よこに臥ふして居いたものが忽たちまちに起おきあがり、其身そのみかろげに本尊ほんぞんの方かたに向むかいて、合掌がっしょうし跪坐きざして、晏然あんぜんとして称名しょうみょうもろともねむるが如ごとくに命終みょうじゅうった。時ときに歳とし漸ようやく九ツここのつであった。

五ご 西六条非人にしろくじょうひにん

文政ぶんせいの頃ころ、京都きょうと西六条新町にしろくじょうしんまちに四十しじゅう計ばかりの乞食こじきの男おとこがあった、昼ひるは日終ひねもすこの所ところを徘徊はいかいし、食しょくを乞こい、夜よるはまたここの軒端のきばかしこの厩うまやに臥ふし、暁あかつきにいたり、御堂みどうの門もんの開ひらくを待まちて階下かいかに跪ひざまずき、勤行ごんぎょうのはつるまで合掌念仏がっしょうねんぶつし、夫それから市中しちゅうにいてて食しょくを乞こうこと常つねのごとくであった。人ひと食しょくを与あたえ銭ぜにを与あたう人ひとあれば、因縁いんねんなりとて喜よろこび、あたえぬも因縁いんねんなりとて恨うらむる色いろなく、また小児しょうにの大勢おおぜい集あつまりて、或あるいは礫つぶてを擲うち、かつぎたるこもを引ひき破やぶりなどする事ことがあっても、因縁いんねんなりとてさらに瞋いかり争あらそうこともなかった。だから人ひと呼よんで因縁乞食いんねんこじきというて居いた。

或あるとしの正月しょうがつ、例れいの通とおり軒下のきしたに臥ふし居いたるに、この町まちの近江屋何某おうみやなにがしというもの、いたく酒さけに酔よい、夜更よふけて帰かえりたるに小便しょうべんがしたくなりこの乞食こじきの臥ふし居いたるを夢ゆめにも知しらず、頭あたまから尿いばりをかけたるに、乞食こじき目めをさまし、因縁いんねんなりとつぶやき、かたえににじり寄よったから、何某なにがし驚天きょうてんし汝なんじが臥ふし居いたるをさらに知しらず、不浄ふじょうをかけたること堪忍かんにんして呉くれよと詫わびた。

すると乞食こじき大おおいに迷惑めいわくの体ていで、是これれ全まったく我臥所わがふしどの悪わるかったからで、貴方あなたを驚おどろかしたのであります。これ因縁いんねんなれば、かならず詫わびては下くださるなと少すこしも恨うらむる気色けしきがなかったからこの人ひと、大おおいに感かんじ汝なんじもしわが存生ぞんしょうのうちに死しすることあらば、よきに葬ほうむり得えさせるであろうと堅かたく約やくして帰かえった。かくして二月ふたつきばかり過すぎて、或日あるひ、町内ちょうないに非人ひにんが死しんだといいさわぐに、もしやとて行いきてみれば、まがう所ところもなく、因縁乞食いんねんこじきであった。

そこで先日せんじつの約やくを思おもい、町まちの長おさに乞こうて、死骸しがいを我家わがいえに引取ひきとり人ひとを雇やとうて沐浴もくよくさせ、棺ひつぎに納おさめて、七条しちじょうの道場どうじょうで火葬かそうに附ふした。その翌あくる朝あさ、家内かないに取込とりこみの事ことありて、収骨しゅうこつを忘わすれ居いたるに、道場どうじょうの者もの走はしり来きたりて、疾とく収骨しゅうこつに参まいられよと促うながしたから今日きょうは家内かないに取込とりこみの事ことありて、忘わすれて居いた。よきに計はからうて呉くれよとたのめば、そは容易よういの事ことではあるが、誠まことに不思議ふしぎの往生人おうじょうにんであった。

自分じぶんは数千人すうせんにんを火葬かそうしたが、未いまだ恁こんな希代きたいの事ことを見みないというて頻しきりに嘆たんずるので、かねて床敷ゆかしく思おもうて居いた折おり、この話はなしをきき、何事なにごともすて置おきて急いそぎ道場どうじょうへゆきてみれば、焼やけたる灰はい、紫むらさきの色いろに変へんじ白骨はっこつ悉ことごとく舎利しゃりとなり、瑩徹えいてつする事こと水晶すいしょうのごとくであったので、大おおいに驚おどろき感嘆かんたんし、早速さっそくに親族知音しんぞくちいんの人ひとに告つげ知しらせ、この舎利しゃりを分わけとり、結縁けちえんのためにとて内仏ないぶつに安置あんちする人ひとも多おおかった。往生おうじょうの日ひは三月十五日さんがつじゅうごにちであったとの事ことである。

大和国やまとのくに

一いち 清九郎せいくろう

霊元帝れいげんていの御宇ぎょう延宝六年えんぽうろくねん、大和国やまとのくに吉野よしのの西北せいほく、約二里やくにり、矢田やたの在所ざいしょに初声うぶごえを挙あげた。

その後のち、双親そうしんは清九郎せいくろうをつれて、矢田やたから六町ろくちょうばかり西にしの丹生谷にゅうだにへ引越ひっこした。今いまでも矢田やたの村端むらはずれには、清九郎屋敷せいくろうやしきという畑地はたちが残のこって居いる。双親そうしんのことは委くわしくは知しれないが、何なんでも余程よほどの貧まずしい生活せいかつで、いわば水呑百姓みずのみびゃくしょうであったから、清九郎せいくろうを育そだてるにも随分ずいぶん苦労くろうをしたらしい。とても自家じかではしこめぬからとて、さる大家たいけの百姓ひゃくしょうへ奉公ほうこうをさせたが、そのうちに父親ちちおやが亡なくなったから、妻つまを娶めとって親おやの後あとを継つぐことになった。もとより財産ざいさんなどのあるべき身分みぶんで無ないから、馬追うまおいをして漸ようやくその日ひを送おくって居いた。

馬士まごといえば何所どこでも粗暴そぼうなものであるが、中なかにも清九郎せいくろうは、小男こおとこでありながら強ごうのもので、馬うまを追おうにも鞭むちをつかわずに拳固げんこで殴なぐる相撲すもうもとる、大酒おおざけも呑のむ、そればかりでなく、喧嘩口論けんかこうろんといえば何時いつも先さきだちてゆく。こういう風情ふぜいであったから、だんだん他ほかから疎うとまれて、終ついには対者あいてにするものさえ無なくなった。ある年としのこと、霖雨りんうが続つづいて仕事しごとが少すくないから、貧まずしい生活せいかつがだんだん貧まずしくなってくる。仕方しかたがない、ありあう小道具こどうぐを売払うりはらってはやっとその日ひを送おくって居いた。もとより茅屋ぼうおくのことだから、頻しきりに雨漏あまもりがしてもそれを塞ふさぐものが無ない。

そこで隣家りんかの荒菰あらごもに目めがついた。人ひとは窮きわまると存外ぞんがい無分別むふんべつになるものである。

清九郎せいくろうは、決けっして善よいこととは思おもわぬが、苦くるしい余あまりに、つい一枚いちまいとり、二枚にまい盗ぬすみ、五枚ごまいまで窃取ぬすみとって、我家わがいえの雨漏あまもりを塞ふさごうとした。それと覚さとった隣家りんかの主人しゅじんは、清九郎せいくろうの家いえへ飛込とびこんで、散々さんざん清九郎せいくろうを罵ののしった上うえ、その荒菰あらごもを取返とりかえした。さすが粗暴そぼうな清九郎せいくろうもこの時ときばかりは頭あたまが上あがらなかった。こういうことがあった為ために、村むらに住すむのが何なんとなく恥はずかしうなったのでこの丹生谷にゅうだにから十八町じゅうはっちょうばかりの峠とうげを越こえて吉野郡よしのぐんへ下くだると、鉾立ほこたてという村むらに知己ちきの馬士まごがあるのを便たよって、そこへ引越ひっこした。世よに「鉾立ほこたての清九郎せいくろう」というはこれからである。

清九郎せいくろうが鉾立ほこたてへ移うつってからは、博奕ばくちや大酒おおざけは女房にょうぼうの諫いさめでふっつりと止やめ、まじめに家業かぎょうを励はげんで二年程にねんほどは無事ぶじに暮くらして居いたが、清九郎せいくろう三十三歳さんじゅうさんさいの時とき、女房にょうぼうは仮初かりそめの病やまいが原因げんいんとなって、遂ついに果敢はかなくなった死しぬるいまわの際きわに、夫おっとの清九郎せいくろうと、一人ひとりの娘むすめを枕頭ちんとうに招まねき、涙なみだを払はらっていうようには、「此度このたびの病気びょうきはとても癒なおる見込みこみがないから、妾わらわはお先さきへ参まいりまするが、それにつけても、必かならず必かならず、博奕ばくちと大酒おおざけとは思おもい止とどまってたまわりたし。又また、娘むすめも幼おさない身みの上うえだから、随分ずいぶん不便ふびんを加くわえて養育よういくして下くだされ。娘むすめも妾わらわの亡なくなった後のちは、ひとしほ父上ちちうえを大事だいじにせよ」

と、懇ねんごろに言残いいのこして帰かえらぬ旅路たびじに赴おもむいたのである。女房にょうぼうに死別しにわかれた清九郎せいくろう、悲歎ひたんのあまりに前後ぜんごも取乱とりみだして、恰あたかも狂気きょうきのようであったから、中なかには後指うしろゆびさして嘲あざけり笑わらうものもあり、中なかにはさまざまに慰なぐさめてくれるものもあったが、少すこしも聞ききわける様子ようすなく、帰かえらぬ愚痴ぐちを繰返くりかえしては、涙なみだのうちに空むなしく月日つきひを送おくって居いた。

所ところが或日あるひ、一人ひとりの知人ちじんが来きて清九郎せいくろうにいうようには、「そなたの嘆なげきは理ことわりだが、然しかし何なんほど歎なげいても、とても回かえらぬことだから、とにかく心こころをとり直なおして仏法ぶっぽうでも聴きかれたなら、一ひとつはそなたの身みのため、一ひとつは女房にょうぼうの菩提ぼだいにもなるであろう。幸さいわいこの下市しもいちで、桜さくらの法会ほうえがつとまって、有難ありがたい説教せっきょうがあるとのこと、私わたしも行いくからそなたもつれだちて来きなさい」と、強しいて勧すすめるものだから、仕方しかたなく清九郎せいくろうも参詣さんけいすることにした。始はじめて聴きいた仏法ぶっぽうの御謂おいわれ、この世よは常住じょうじゅうの所ところでない、一息ひといきつがざれば千歳ちとせ長ながうゆく。無常むじょうの嵐あらしの誘さそい次第しだい、恐おそろしい暗路あんろに流転るてんせねばならぬ。そういうものを御目当おめあてに御成就ごじょうじゅ下くだされたが如来にょらいの本願ほんがん、「たのめ、たすくる」

の喚声よびごえの疑うたがいなく信しんぜられたものならば、立たちどころに心光常護しんこうじょうごの益やくを蒙こうむり、命終みょうじゅうれば無上涅槃むじょうねはんの証しょうを開ひらかして下くださる宿因深厚しゅくいんじんこうの故ゆえであろう。懇ねんごろなる御化導ごけどうに耳傾みみかたむけた清九郎せいくろう、今更いまさらのように驚おどろいた。仏法ぶっぽうといえば他人たにんの事こととのみ思おもうて居いたに、聞きけば全まったく自分じぶんのことであった。喚よばれて居いるのは自分じぶんである、助たすけらるるのは自分じぶんである。流転るてんといい、涅槃ねはんといい、本願ほんがんの御成就ごじょうじゅといい浄土じょうどの御建立ごこんりゅうといい、皆みなこの清九郎せいくろうのことであったと知しられた身みがどうして驚おどろかずに居いられよう。

清九郎せいくろうの心機しんきは全まったく一転いってんした。斯かくて清九郎せいくろうは光明こうみょうの生活せいかつに入はいったのである。老後ろうご、清九郎せいくろうが土地とちの領主りょうしゅの母君ははぎみに召出めしだされて、「その方ほうはいつごろから御信心ごしんじんを頂いただいたか」と尋たずねられた時とき、「願ねがうべきは浄土じょうどなりと思おもいそめたは、三十二三さんじゅうにさんの頃ころかとも覚おぼえますが、そのころは出離しゅつりの道みちについて、兎とや角かく疑うたがいがありましたに、いつしかその疑うたがい晴はれて今いまは近ちかづく浄土じょうどをたのしみに、御報謝ごほうしゃの称名しょうみょうを喜よろこばしていただくのは、全まったく他力たりきの御催おもよおしぞと有難ありがたくそんじて居おりまする」と答こたえたのでも女房にょうぼうの死別しべつが大因縁だいいんねんであったことが知しらるるのである。一度いちど御法ごほうを聴聞ちょうもんして、如来にょらいの御慈悲おじひに打明うちあかされた清九郎せいくろう、この世よからなる生うまれかわった人ひととなった。

相替あいかわらず馬追うまおいの渡世とせいをして、御法義ごほうぎを喜よろこんで居いたが、その中うちに馬うまが死しんだから、懇ねんごろにそれを弔とむらうて、またもとの農業のうぎょうをいとなみ、三年さんねんほど鉾立ほこたてに暮くらして居いたが、丹生谷にゅうだにの同行どうぎょうの懇望こんもうで、再ふたたび生地しょうちの丹生谷にゅうだにに帰かえることになった。丹生谷にゅうだにへ帰かえってからは、農業のうぎょうの隙ひまに、山やまで柴しばを刈取かりとって、それを売うっては生活せいかつをした。買人かいにんが「いくらか」と尋たずねると、「いくら」と応こたえる。「それは高たかいから、いくらにまけよ」といえば、一いちも二にもなく言いう通とおりにする。だから、終ついには、清九郎せいくろうの売うる柴しばは、一人ひとりとして直限ねぎるものがなくなったばかりでなく、中なかには増銭ましぜにをやるというものが出来できてきた。が清九郎せいくろうは決けっしてそれを受取うけとらない。「それでは寺てらの賽銭さいせんに」といえば、それを受うけて押戴おしいただき、残のこらず仏前ぶつぜんに捧ささげて終しまう。

また他ほかの柴売しばうりの売うったのが、自分じぶんのより廉やすかった話はなしを聞きく時ときには、以前いぜんに売うった家いえに往いってこの前まえに柴代しばだいが五文ごもん多おおかったから、六文ろくもん多おおかったからというて、何所どこへも一々いちいち戻もどして回まわった。

清九郎せいくろう、毎年まいとし五六度ごろくどは必かならず京都きょうとの本山ほんざんへ参詣さんけいしたが、その度たびごとにいつも薪たきぎを献上けんじょうする。その薪たきぎは、幾度いくどとなく水みずで洗あらい、乾かわかしてはまた洗あらって、不浄ふじょうの場所ばしょには置おかぬよう、ひとかたならず気きをつけたものである。本山ほんざんでも、そのまことに感かんじて、清九郎せいくろうの献上けんじょうした薪たきぎは別べつにして、御仏飯おぶっぱんを炊たく料りょうにせられたということである。

清九郎せいくろうには一人ひとりの年寄としよった母ははがあった。

清九郎せいくろうが京参きょうまいりを勧すすめても齢としを取とったからとて聴きかれ無ない。

そこで清九郎せいくろうのいうようには、「それでは私わたしが負おぶって参まいりましょう、それとも駕舁かごかきを一人ひとり雇やとって、私わたしが一人ひとり合棒あいぼうでやれば、御前おまえも楽らくではあるけれども、清九郎風情せいくろうふぜいのものの親おやが、駕籠かごで京参きょうまいりをしたというては、世よの聞きこえも悪わるいから、窮窟きゅうくつではあろうが、どうか私わたしに負おぶれてください」というて、母ははを背負せおいて二十里にじゅうりの道程みちのりを上のぼり、本山ほんざんに参詣さんけいして、下向げこうにも亦また背負せおうて帰かえったとのことである。

ある時とき、清九郎せいくろう、親おやの枕まくらを天井てんじょうに吊つって置おいたから、見みる人ひとが不審ふしんに思おもうて、なぜそんなことをすると尋たずねると、「親おやの頭あたまに用もちいたものを、若もし闇くらがりで足あしにでもかけると勿体もったいないから、こうしておいて、見みるたび毎ごとに親おやの恩おんを思出おもいださせて頂いただきます」と答こたえた。その孝心こうしんの深ふかいこと、さまざまの噂うわさが伝つたわって、その土地とち高取たかとりの領主りょうしゅ出羽守殿でわのかみどのの耳みみに這入はいった。世よの模範もはんともなるからとて、褒美ほうびに米五俵こめごひょうを下くだされた。

清九郎せいくろう驚おどろいていうようには、「親おやにつかえるのは子この当然とうぜんで、何なにも珍めずらしいことではありませぬ、それに御褒美ごほうびを頂いただくなどとは勿体もったいない。私わたしは柴売しばうりの渡世とせいをして、その日ひに不足ふそくもありませぬから」とて、辞退じたいしてお受うけをしないから、領主りょうしゅは益々ますますその志こころざしに感かんじて、再ふたたび清九郎せいくろうを膝近ひざちかう呼寄よびよせ、鳥目十貫文ちょうもくじっかんもんを賜たまわって、「領分りょうぶんの山やまなれば何所どこでも苦くるしうない。汝なんじがこころまかせに柴しばを刈かれ」との御許おゆるしが出でた。

清九郎せいくろうは喜よろこんで家いえに帰かえり領主りょうしゅからの賜物たまもの、みだりに使つかうは勿体もったいないからとて、一文いちもんも残のこらず本山ほんざんへ献上けんじょうして終しまった。鉾立ほこたての庄屋しょうや角兵衛かくべえ、ある時とき、今井町いまいちょうの代官所だいかんしょへ上のぼったついでに、おなじ町まちの小間物店こまものみせへ立寄たちよった。話はなしのついでに清九郎せいくろうの噂うわさが出でる。

すると店みせの亭主ていしゅが、「清九郎せいくろうといえば、私わたしはあの人ひとの親父おやじに、小間物こまものの売代うりだいが六匁程ろくもんめほど貸かしてあったが、むこうは疾とくに亡なくなったから、つまりは此方こちらの損そんです」という。角兵衛かくべえ、帰かえって後のち、そのことを清九郎せいくろうに語かたると、清九郎せいくろうは非常ひじょうに喜よろこんで、早速さっそく銀六匁余ぎんろくもんめあまりを調ととのえ、急いそいで今井いまいの店みせに赴おもむき、訳わけをいうてその銀ぎんを出だす。亭主ていしゅは大おおいに驚おどろいて、「何なにも済すまして貰もらうつもりでいうたのではない、御前おまえの噂うわさが出でたにつけて、つい思出おもいだしたままいうたまでのこと。これはどうしても受取うけとれぬ」という。

清九郎せいくろういうよう、「親おやの借財しゃくざいは子この借財しゃくざいそれを済すますのは当然とうぜんでありまする」、どうしても聞入ききいれる様子ようすがない。

そこで亭主ていしゅもその志こころざしに感かんじて、半金はんきん我方わがほうに貰もらい受うけ、半金はんきんは無理むりに清九郎せいくろうへ押戻おしもどした。仕方しかたがない、清九郎せいくろうも受取うけとって押戴おしいただき、帰途きと、宿坊しゅくぼうの因光寺いんこうじに立寄たちよって、その銀ぎんを布施ふせとして、親おやの逮夜たいやの仏事ぶつじを営いとなんだ。

その後ご、清九郎せいくろう、御所ごせの町まちの商人しょうにんに、綿わたを売うったことがある。しばらく経たてから、清九郎せいくろう、その商人しょうにんの店みせに立寄たちよると、商人しょうにんのいうには「清九郎殿せいくろうどの、お前まえは善よい折おりに売うられたよ、今いまでは一度いちどに相場そうばが下さがって、どうしても十八匁じゅうはちもんめの損そんでしょう」。これを聞きいた清九郎せいくろう、心こころの中なかで気きの毒どくに思おもい、うちへ帰かえりて銀ぎんを調ととのえ、その足あしで御所ごせへ赴おもむいて、それを先方せんぽうへ渡わたそうという。商人しょうにんは胆きもを潰つぶして、「清九郎殿せいくろうどの何なにをなさる。損そんするも儲もうかるも商あきないの習ならい。たとひ私わたしが十八匁じゅうはちもんめ儲もうけたからとて、一文いちもんもそなたに返かえす筈はずもなく、損そんしたからとて貰もらう筈はずもない」とつき戻もどせば、清九郎せいくろう、「商人しょうにんが儲もうからのうては立たちゆきませぬ。それを私わたしが損そんをさせては」とて聞入ききいれぬ。

商人しょうにんも困こまって居いる所ところへ、隣家りんかの同業者どうぎょうしゃが立入たちいって、さまざまに執成とりなした結句けっく、これを折半せっぱんすることになる。その半金はんきんを懐ふところにした清九郎せいくろう、直ただちに上京じょうきょうして之これを本山ほんざんへ献納けんのうした。

ある日ひ清九郎せいくろう、上納じょうのうの年貢米二俵ねんぐまいにひょうをこしらえて庭にわに置おくと、その夜よる盗賊とうぞくが這入はいって持出もちだしかけた。ふと眼めを覚さました清九郎せいくろう、その有様ありさまをみて声こえをかけ、「それはお前まえにあげるから、遠慮えんりょのう持もって行いかしやれ、貰もろうたといえばお咎とがめはないから、心配しんぱいせずとも宜よいしが、それでは手前てまえ持もちにくかろう。明晩みょうばん来きて下くださるなら、銀ぎんにして置おきましょう」という。盗賊とうぞくもたけだけしい、「そんなら銀ぎんにしておけ」というたまま出でて行いった。

翌朝よくあさ、清九郎せいくろうは早速さっそくそれを売払うりはらって、夜半やはんまで待まったが盗賊とうぞくは来こない、「こんなことなら、米こめのままにやって置おけばよかったに」と、思おもうたけれども仕方しかたがない。

すると、四五日しごにち経たて後のち、夜窃よるひそかに例れいの盗賊とうぞくが忍しのんで来きた。「先日せんじつ約束やくそくの銀ぎんを受取うけとろう」という。

清九郎せいくろうのいうようには、「あの朝あさ急きゅうに売うったから、今日きょうの相場そうばとは廉やすいけれど、堪忍かんにんして持もってゆかれよ」、差出さしだす銀ぎんを引取ひきとりて、何心なにごころなく清九郎せいくろうの顔かおをみた。如来にょらいの大悲だいひにうちあかされた触光柔軟そっこうにゅうなんのその面おもざし、莞爾かんじとした無邪気むじゃきの姿すがたを眺ながめては、流石さすがの盗賊とうぞくも心こころを動うごかさずには居いられない。一旦いったん奪うばった銀ぎんを投出なげだして、急きゅうに立たって帰かえろうとする。

清九郎せいくろう、慌あわてて引止ひきとめ、「折角せっかくの私わたしが志こころざし、どうしてお前まえの気きにいらぬぞえ」。「だって貴様きさまは正直しょうじき過すぎる。何なんだか馬鹿ばかげて取栄とりはえせぬから、まあ、この銀ぎんはよしにしよう」。「そういわずとも持もって往いかしやれ」。「いや、どうしても此銀このぎんはとらぬ」。「それなら、お前まえは善人ぜんにんじゃのう」、と、いわれて盗賊とうぞくは黙だまって居いる。「善人ぜんにんじゃ、立派りっぱな善人ぜんにんじゃ、それほど立派りっぱな善人ぜんにんでありながら、暗くらがりに居いるとは可惜あたらごとじゃ、何故なぜ、世間通用せけんつうようの善人ぜんにんにはなられぬぞ」。斯かくと聞きいた盗賊とうぞくは、始はじめて「我われ」というものに気きがついた。悪事あくじに染そまった始終しじゅうを語かたり、清九郎せいくろうの前まえで懺悔さんげしたから、清九郎せいくろうも非常ひじょうに喜よろこんで、その銀ぎんで身みの行末ゆくすえの世話せわをしてやった。

鉾立ほこたての隣となりに矢橋やばせという小村こむらがありて、そこに久六きゅうろくという若者わかものがあった。悪わるいことなら何なんでもやる、博奕ばくち、大酒おおざけはいうまでもなく、喧嘩口論けんかこうろんといえばいつも他ほかより先さきに出でる。ひとも対手あいてにせぬほどの無頼漢ぶらいかんで、その界隈かいわいのもてあましものである。

ある時とき、鉾立ほこたての若者わかものから清九郎せいくろうの娘むすめ小こまんが成人せいじんして、養子ようしを求もとめて居いる噂うわさをきいて、「よし己おれがその養子ようしになってやろう、どうかその話はなしをして呉くれ」というから、とても清九郎せいくろうの気きには入はいるまいと思おもいながら、その事ことを清九郎せいくろうに語かたると、清九郎せいくろうは非常ひじょうに喜よろこんで、「来きてさえくだされば、どの様ような人ひとでも苦くるしうない」と、切せつに世話せわを頼たのむから、とても末遂すえとぐる縁えんではないと思おもいながら、双方そうほうの望のぞみに任まかせて、久六きゅうろくを小こまんの聟むこにした。その噂うわさを聞きいた人々ひとびとは、清九郎せいくろうを気きの毒どくに思おもわぬものは無ない。

清九郎せいくろうの養子ようし、小こまんの聟むことなった久六きゅうろく。清九郎せいくろうの家いえへ入はいって、僅わずかに一月ひとつき経たたぬ間まに、全まったく人格じんかくが変かわって終しまった。すべての悪事あくじを廃やめたばかりではなく、夫婦ふうふ睦むつまじう、親おやに孝道こうどうを尽つくして、何時いつの間まにやら法義ほうぎに入はいり行住坐臥ぎょうじゅうざが、つねに念仏ねんぶつの絶間たえまなく、御恩ごおんを喜よろこぶ身みとなった。

ある時とき、清九郎せいくろう、田地でんちを一枚いちまい、手次寺てつぎでらへ寄附きふしたいからとて、その事ことを久六きゅうろくに相談そうだんすると、久六きゅうろくのいうよう、「何なんなりとも寄進きしんをなさるがよい、子孫しそんに果報かほうがなければ、終ついには他人たにんの手てにわたる財宝ざいほう、今いま仏恩師恩ぶっとんしおんを報むくゆるために、寺てらに寄附きふしておけば、それが却かえっていつまでも、我家わがいえの実じつでありましょう」。

享保四年三月二十六日きょうほうよねんさんがつにじゅうろくにち、東本願寺ひがしほんがんじ大門建立だいもんこんりゅうの新始しんしの式しきがあった。その時ときから清九郎せいくろうは、何なんとかして寄進きしんをしたい望のぞみはあったが、何分なにぶんにも貧まずしい身みの上うえで、心こころに足たるほどのことが出来できぬ。

或年あるとし、娘むすめの小こまんが、永々ながながの丹誠たんせいで仕立したててくれた浅黄縞あさぎじまの木綿もめんの布子ぬのこを着きて、悦よろこんで京都きょうとへ参詣さんけいし翌朝よくあさの勤行ごんぎょうが済すんで御庭おにわへ出でると、御門ごもんの寄進所きしんしょに大門建立だいもんこんりゅうの寄附きふが取扱とりあつかわれている。

清九郎せいくろうは直ただちにそこへ立寄たちよって、帯おびを解といて布子ぬのこを脱ぬぎ、大門だいもんの寄進きしんにとて差出さしだすから、役人達やくにんたちは驚おどろいて、「志こころざしはありがたいが、寒さむさも烈はげしい今日きょうこの頃ごろ、ことに老体ろうたいの身みの上うえで、若もしや寒気かんきに犯おかされては身みのためにも宜よろしく無ない、寄進きしんは何なにも今日きょうに限かぎらぬ、またよい時節じせつにさしあげられよ」と論さとされる。

清九郎せいくろうのいうには「幾度いくど思おもい定さだめても、変かわりやすきは人心ひとごころ、たとひそれが変かわらぬにもせよ、明日あすの命いのちはたのみがたい身みの上うえなれば、なにとぞ御納おおさめくだされよ」と、無理むりに布子ぬのこを差置さしおいて襦袢一枚じゅばんいちまいで帰途きとに就ついた。

丹生谷にゅうだにの同行二人どうぎょうふたり、鉾立ほこたての同行二人どうぎょうふたり、これも同おなじく京都きょうとに参まいって、昨日きのうおそく京都きょうとをたち、道中どうちゅうの旅宿りょしゅくに泊とまって、今日きょう歌姫うたひめ(奈良ならの西北せいほく)の村茶屋むらぢゃやに休やすんで居いると、襦袢一枚じゅばんいちまいの爺じいさんが、震ふるいながら念仏ねんぶつをとなえ、声こえをあげて泣なきながら前まえを通とおるから、怪あやしんでよくみると、日頃ひごろ親したしい清九郎せいくろうである。この寒空さむぞらにその姿すがたは何事なにごとぞ、定さだめて盗賊とうぞくに遇あわれたであろう」といえば、はじめて気きがついた清九郎せいくろう「実じつはかくかくの次第しだい、今いま、寒風かんぷうが身みにしむにつけ、聖人しょうにんの御苦労ごくろうが思おもわれて、尊とうとさのあまり、うれし涙なみだにかきくれて、つい失礼しつれいをしました」という。同行達どうぎょうたちも共ともに喜よろこび、一人ひとりの着きたる袷羽織あわせばおりを脱ぬいで清九郎せいくろうにうち着きせ、ともにつれ立だちて丹生谷にゅうだにへ向むかった。

隣村となりむらまで来くると清九郎せいくろう、鉾立ほこたての同行どうぎょうに向むかって、「折角せっかく娘むすめが丹誠たんせいして、こしらえてくれた布子ぬのこを、相談そうだんもせずに献上けんじょうしたから、さぞ娘むすめも惜おしう思おもうであろう、お前達まえたちは、丁度ちょうど道筋みちすじのことだから、一足先ひとあしさきへ往いって、娘むすめが腹はらを立たてぬよう、執とり成なしてくだされ」と頼たのむから、早速さっそく承知しょうちして先さきにゆき、小こまんにその事ことを語かたると、小こまんの喜よろこびは一方ひとかたでない、「私風情わたしふぜいの手てにかけたものが、大門建立だいもんこんりゅうの御用ごようにたったとは何なんたる忝かたじけないことぞ」と、父ちちにも増ました志こころざし。この寒空さむぞらに衣服いふくを脱ぬいでもし寒気かんきに犯おかされてはと、父ちちの古布子ふるぬのこを取出とりだして、急いそぎ足あしで迎むかえに出でた。丹生谷にゅうだにの隣となりの市屋いちやという村むらはずれで、父ちちにあい、布子ぬのこを着きせようとしたが、風かぜに当あたって冷つめたいから、自分じぶんの衣服いふくを脱ぬいで父ちちに着きせ、父ちちの古布子ふるぬのこを自分じぶんに着きて、丹生谷にゅうだにの宿坊しゅくぼうに参詣さんけいし、うちつれて我家わがいえへ帰かえって来きた。

ある日ひ清九郎せいくろう、他ほかから帰かえる途中とちゅうで、諸国行脚しょこくあんぎゃの修行者しゅぎょうじゃに遇あうた。みれば単衣ひとえも破やぶれ勝がちて、ところどころ肌身はだみが露あらわれて居いる。きけば永ながの道中どうちゅうを煩わずらって、今いまは一文いちもんの貯たくわえもないとのこと。

清九郎せいくろうは不愍ふびんでたまらない。己おのれを忘わすれてわが着きたる布子ぬのこを脱ぬぎ、之これを修行者しゅぎょうじゃにうち着きせて、「私わたしは老人ろうじんでも達者たっしゃな身みじゃ。病やみ上あがりのそなたがその様ようで、どうしてこの寒空さむぞらに耐たえられよう。遠慮えんりょなく着きてゆかれよ」という。修行者しゅぎょうじゃは喫驚びっくりして、「かほどまでの広大こうだいな御情おなさけ、あなたは仏ほとけでましますか」とて、涙なみだを流ながして伏ふし拝おがんだ。

襦袢一枚じゅばんいちまいで帰かえって来きた清九郎せいくろう、娘むすめ小こまんにいうようには、「今いま来くる途みちで斯かくかくの次第しだい。粗末そまつの布子ぬのこを遣やったらば、この清九郎せいくろうを仏ほとけじゃとよ。僅わずかの寒さむさを救すくうてさえ、人ひとは斯程これほどに喜よろこぶものを、小こまん、そなたも喜よろこんでくれ、大悲深重だいひじんじゅうの親様おやさまは、この清九郎せいくろうが三悪道さんまくどうの苦患くげんを御救おすくいくださるばかりでなく、仏ほとけの証しょうをひらかして下くださるのじゃ」と、踊おどり上あがって喜よろこんだ。

その姿すがたを見みた小こまん、どうして喜よろこばずに居いられよう、「これほどに御引立おひきたてにあずかるのも、その旅人たびびとがあった為ため、その病やみ上あがりの旅人たびびとこそ、まことに今日きょうの知識ちしきでありました」。

清九郎せいくろうの信徳しんとくが益々ますます評判ひょうばんになって、時ときの御法主台下ごほっすだいかの御耳おみみに入はいり、「今度こんど上京じょうきょうしたならば、対面たいめんをするほどに」との御意ぎょいがあったから、その次つぎ、参詣さんけいのとき、役人やくにんから清九郎せいくろうへその思召おぼしめしを伝つたえた。

清九郎せいくろうは大層たいそう喜よろこんで、そのまま何なんの遠慮えんりょもなく、御召おめしのままに奥御殿おくごてんへ参上さんじょうした。

すると、並ならび居いる役人衆やくにんしゅうが咎とがめて、「御目見おめみえの作法さほうは、烏帽子えぼし、素袍すおうを着つけねばならぬ、上うえを敬うやまう礼儀れいぎだから、その用意よういをしてこられよ」との事ことに、無造作むぞうさに参上さんじょうした清九郎せいくろうは驚おどろいて、「はい、はい。何なんの弁わきまえもない百姓ひゃくしょうの身みで、つい御無礼ごぶれいを致いたしました。私わたしはつねづね御本堂ごほんどうの御本尊ごほんぞんを始はじめ、御真影ごしんねいの御前おまえへも、この肩衣かたぎぬのままで参まいりますから、宜よいことと心得こころえて、まことに粗相そそうを致いたしました」と、幾度いくどもお詫わびをして下さがりかけた。

かれこれして時ときが移うつるから、その旨むねを奥おくへ申上もうしあげると、「平素へいその服装ふくそうで苦くるしうない」との仰おおせであったから、清九郎せいくろうは、浅黄あさぎの古袷ふるあわせに肩衣かたぎぬをかけて、御前近おまえちかう進すすみ出でた。ありがたい御語おことばが下くだって、御盃おさかずきを頂いただいた上うえに、御剃刀おかみそりを御免ごめんし下くだされ、浄元じょうげんという法名ほうみょうを下くだされた。

或人あるひとが清九郎せいくろうに対むかって「今いま、途みちで磔刑たっけいの罪人ざいにんを見みて来きたが、何なんでも恐おそろしい奴やつじゃそうな。清九郎殿せいくろうどの、あんな大悪人だいあくにんでも、如来様にょらいさまをたのむとたすけて下くださるかい」と尋たずねた。

清九郎せいくろう、応こたえていうよう、「たすかるとも、たすかるとも、この清九郎せいくろうでさえたすかるものを」と。

清九郎せいくろう、五十歳ごじゅっさいの頃ころから六十五六ろくじゅうごろくの時分じぶんまで、自分じぶんを訪たずねて来きた同行どうぎょうの所ところへは、必かならず礼れいに往いって、五六里ごろくりの遠路えんろでも、その日帰ひがえりにしたものである。御所ごせの町まちに、細井戸屋何某ほそいどやなにがしという人ひとがあって、清九郎せいくろうを訪たずねて、法義ほうぎをきかれたから、その後のち、清九郎せいくろうも亦また細井戸屋ほそいどやを訪たずねた。折おりしも夏なつの最中さいちゅうで、殊ことに午近ひるちかいから、せめては日ひの傾かたむくまで休やすまれよと、主人しゅじんが強しいて止とめるから、一間ひとまで涼すずんで居いるうちに、暑気しょきの疲労ひろうでつい眠ねむってしまう。主人しゅじんは勝手かってで素麺そうめんを冷ひやさせ、用意よういが出来できたから持もって出でると、清九郎せいくろうは横よこになって、平常へいじょうの様ように念仏ねんぶつを唱となえて居いる。召上めしあがれというても返事へんじがない。側そばへ寄よってみるに、よく寝入ねいって居いる。寝入ねいっては居いるが称名しょうみょうだけは少すこしもかわらぬ。

揺ゆり起おこして素麺そうめんをすすめながら、念仏ねんぶつのことを尋たずねるに、少すこしも覚おぼえがないとのことである。このすがたを見みた主人しゅじん、ひとしお驚おどろきをたてて、家業かぎょうを跡目あとめに譲ゆずりあたえ、自分じぶんは姿すがたをかえて禅門ぜんもんとなり、釈しゃくの教西きょうさいと名なのって、程近ほどちかい寺内村じないむらに隠居いんきょし、いよいよ清九郎せいくろうの御引立おひきたてを蒙こうむった。

鉾立ほこたてから半里はんりほど西にし、山道やまみちをゆくと大石おおいしという村むらがある。そこに道西どうさいというて、清九郎せいくろうに親したしい同行どうぎょうがあった。ある年とし道西どうさい、報恩講ほうおんこうを勤つとめるからとて、前以まえもって清九郎せいくろうに案内あんないしたが、生憎あいにくその日ひが大吹雪おおふぶきで、夜よるに入はいってもまだ息やまない。

清九郎殿せいくろうどのも、これではとても来こられまい、残のこり多おおいが勤行ごんぎょうを始はじめようと、参詣さんけいの同行達どうぎょうたち、各々おのおの支度したくにとりかかると、そこへ蓑笠みのかさの人ひとが来きた。上うえも下したも雪ゆきだらけ。笠かさを取とれば清九郎せいくろうである。道西どうさいも非常ひじょうに驚おどろいて、「目口めくちも開あけぬこの吹雪ふぶき、ことに老体ろうたいの御身おんみが、よくもあの山坂やまさかが越こえられしぞ、定さだめて難義なんぎであったろう」、とさまざまにもてなせば、集つどうた同行どうぎょうもいろいろに労いたわる。

清九郎せいくろうは礼れいを述のべながら、「身みを粉こにし、骨ほねをくだきても報ほうずべき御恩ごおんとは、かねがね承うけたまわって居おりまするが、それほどでも及およばぬこと。何程なんほど降ふりが強つよくても雪ゆきじゃもの。たとひ蓑笠みのかさを通とおせばとて布子ぬのこがあり、布子ぬのこを通とおしても皮かわがある。よも肉にくまでは通とおるまい。これで御恩報謝ごおんほうしゃをさしていただくとは、何なんたる忝かたじけないことぞ」と、喜よろこぶ姿すがたを眺ながめては、集あつまった人々ひとびとも慚はじ入いった。

清九郎せいくろうの領地りょうちに、至いたって味あじの善よい柿かきの木きがあった。清九郎せいくろうは毎年まいとし之これを本山ほんざんに献上けんじょうする。その柿かきの実みを取とる竿さおは、決けっして外ほかのことに用もちいない、足あしにかけてはならぬというので、いつも屋根裏やねうらにつるして置おいた。

清九郎せいくろうが亡なくなった後あとで、人々ひとびとその志こころざしに感かんじ、その竿さおを箱はこに納おさめ、由来ゆらいを記しるして、永ながく後世こうせいに伝つたえたということである。

娘むすめ、小こまんは、ふと病やまいの床とこに就ついて、怠おこたりなく療治りょうじをしたが、次第しだいに重おもくなって、たより少すくない身みになった。いよいよ臨終りんじゅうに近ちかづいた時とき父ちちと夫おっととに扶たすけられ、仏壇ぶつだんの本尊ほんぞんに拝礼はいれいして、夫おっとの久六きゅうろくにいうようには、「何なにも思おもいのこすことはありませぬ。ただ次第しだいに齢としをとらるる父上ちちうえ、これからはさぞ御不自由ごふじゆうでありましょう、どうぞ、私わたしにかわって孝行こうこうしてくだされ。穢けがれはてたるこの小こまんも、いまこそ女人成仏にょにんじょうぶつの証果しょうかを開ひらかして頂いただきます」と、仏前ぶつぜんに跪ひざまずいて、一心不乱いっしんふらんに念仏ねんぶつしながら、二十六歳にじゅうろくさいを一期いちごとしてついに空むなしき人ひととなった。

女房にょうぼうに別わかれた昔時むかしは、悲嘆ひたんに狂くるうた清九郎せいくろう、娘むすめに別わかれた今日きょうは、かなしみの色いろのうちに、ひとしほ喜よろこびの念ねんを増ました。

小こまんが亡なくなってからは、一家いっか男おとこばかりでもあり、久六きゅうろくもまた若盛わかざかりだから、後妻ごさいを迎むかえたらばと勧すすめる人ひともあり、清九郎殿せいくろうどのの嫁よめならばとて富貴ふうきの人ひとから申込もうしこむものも多おおかったが、久六きゅうろくは、すこしも後妻ごさいを娶めとる心こころなく、ただ偏ひとえに親おやを大事だいじにかしづいた。

清九郎せいくろうも段々だんだん齢としをとったから、家事かじを久六きゅうろくに任まかせて、自分じぶんは丹生谷にゅうだにの山陰やまかげに隠居いんきょした。妙好人伝みょうこうにんでんの著者ちょしゃ、仰誓師ごうせいし、寛延二年かんえんにねんの春三月はるさんがつ、朋友ほうゆうの義詮師ぎせんしとつれだちて、わざわざこの清九郎せいくろうの隠宅いんたくを訪たずねられたことがあるが、その家いえ、僅わずかに二間ふたまばかり、莚二三枚むしろにさんまいを敷しいて、茶碗二ちゃわんふたつ三みっつ、釜一かまひとつの外ほか、何なにもなき侘住居わびずまい、師しもその余あまりなのに驚おどろかれたとの事ことである。斯様かような乞食小屋同様こじきごやどうようの所ところへ、土地とちの貴人きじんや、諸方しょほうの大徳方だいとくがたが訪たずねられるのだから、御所ごせの町まちの小寺屋こでらやの禅門ぜんもんが気きの毒どくに思おもうて、清九郎せいくろうの家普請いえぶしんをしようと思おもいたち、近在きんざいの同行どうぎょうに話はなしをした。

すると「清九郎殿せいくろうどのの事ことならば」というので、忽たちまち沢山たくさんの金かねが集あつまったから、早速さっそく清九郎せいくろうの所ところへ赴おもむいて、近ちかいうちに普請ふしんに取とりかかるからというと、清九郎せいくろうは一方ひとかたならず驚おどろいて「これは思おもいもよらぬこと、どうかその儀ぎはやめて下ください」というてどうしても承知しょうちしてくれぬから、禅門ぜんもんも大おおいに困こまって、折角せっかく、同行衆どうぎょうしゅうが寄附きふしてくれた普請ふしんの志こころざし、若もし、お前まえが承知しょうちせられぬと、私わたしが私欲しよくで為したように疑うたがわれても困こまるから」といえば、清九郎せいくろうも迷惑めいわくして、「まことに御志おこころざしはありがたいが、余命よめいも少すくない身みの上うえ、ことに住家すみかのわびしいのは、結構けっこうなれ浄土じょうどを慕したうようにもなりまする。折角せっかくの御志おこころざしだから、どうかそれで、宿坊しゅくぼう因光寺いんこうじの仏具ぶつぐを寄附きふして下くだされたら、ありがたう存ぞんじます」という。

そこで禅門ぜんもんもその志こころざしに感かんじて、清九郎せいくろうの望通のぞみどおりにした。

今井いまいの町まちの紅屋べにやといえば、当時とうじ名代なだいの商家しょうかである。そこに一人ひとりの少女しょうじょがあった。七八歳しちはっさいのころから仏法ぶっぽうに親したしんで、御恩ごおんを喜よろこんで居いたが、家柄いえがらでもあり、容儀ようぎも他ほかに勝すぐれて、女おんなの道みちにも達たっして居いるから十五六歳じゅうごろくさいの頃ころには、頻しきりに縁えんを望のぞむ者ものがあった。然しかるに、出離しゅつりを求もとむる少女しょうじょには、浮世うきよの絆きずなを望のぞまない、あけくれ浄土じょうどを懐おもう余あまり、いっそ自害じがいしてなりとも急いそいで参まいりたいものと、心窃こころひそかに思おもうて居いる所ところがある日ひ、おなじ今井いまいの順明寺じゅんみょうじの本堂ほんどうで、平素へいそ知合しりあいの清九郎せいくろうに会あうた。

清九郎せいくろうが諭さとしていうようには、「余あまり御恩ごおんの尊とうとさに、此世このよを厭いとうこころから、折おりに触ふれては、首くびしめてなりとも、淵川ふちかわへ身みを投なげてなりとも、はやく往生おうじょうしたいと思おもうこころの出でるものじゃが、必かならず必かならず早はやまってはなりませぬぞ。生いきなば念仏ねんぶつとなえなん、死しなば浄土じょうどへ参まいりなんと、信心相続しんじんそうぞくの上うえより、如来にょらいの照護しょうごを喜よろこんで、さだまれる定命じょうみょうを待またれよ」と。これを聞きいた少女しょうじょは非常ひじょうに喜よろこんで、両親りょうしんに願ねがうて髪かみをおろし、釈しゃくの貞寿ていじゅと名なを改あらため、終生しゅうせい御恩ごおんを尊とうとんで、ついに往生おうじょうを遂とげたとの事ことである。

越中えっちゅう茗荷原みょうがはら妙覚寺みょうかくじの住職じゅうしょく、玉譚師ぎょくたんしが、寛延元年かんえんがんねんの春はる、国くにへ帰かえる時とき、心こころひそかに思おもわれるよう、「国元くにもとには真宗しんしゅうの御流おんりゅうを汲くむものが多おおく、法談会合ほうだんかいごうも数多かずおおいことではあるが、大概たいがいは浮ういた聴聞ちょうもんで、まこと心こころの奥底おくそこから、愚痴ぐちに還かえって本願ほんがんを仰あおぐものは、千人せんにんに一人ひとりか、万人まんにんに一人ひとり、ただ徒いたずらに口くちで御慈悲おじひを説とくよりも、いっそ清九郎せいくろうのような信者しんじゃに遇あわせたなら却かえって驚おどろきを起たてることであろう」。こう思おもいたって、清九郎せいくろうを誘さそうて、はるばる越中えっちゅうへ下くだられた。

七十ななじゅうに近ちかい清九郎せいくろう、百里ひゃくりの道みちを歩あゆむうち、一度いちども草臥くたびれたということをいわぬ。玉譚師ぎょくたんしがいたわって、「今日きょうは定さだめて草臥くたびれたであろう」というと「いや、くたびれませぬ」と応こたえる。「だって、起臥きがも不自由ふじゆうそうで、跛びっこをひかるるではないか」といえば、「はい、身体からだはくたびれても、心こころは聊いささかも疲つかれませぬ」「それは何故なぜか」と尋たずぬると、「はい、形かたちは七十ななじゅうの老体ろうたいじゃが、心こころはいつも十八じゅうはちで」。

おなじ越中えっちゅうへ下くだる道みちで、川かわを渡わたらねばならぬことがあった。まだ春浅はるあさい時ときだから、玉譚師ぎょくたんしが気きの毒どくに思おもうて、「若わかい自分じぶんでさえ、この川水かわみずの冷つめたいのは厭いやである。まして老体ろうたいの御身おんみは、さぞ辛つらいことであろう」といわれた。

すると清九郎せいくろうのいうよう、「決けっして大儀たいぎとは思おもいませぬ。若もし、このように寒さむい時とき、河かわを十度じゅうどわたらねば、助たすけてやらぬという御誓おちかいならば浅あさましい我身わがみは、二ふたつか三みっつ渡わたったら、もう大儀たいぎになって、残のこる六むっつ七ななつは渡わたらずして、後世ごせを仕損しそんずるであろうが、河一かわひとつも渡わたらずに、助たすけて下くださる御恩ごおんを思おもえば、この川かわの五いつつや六むっつぐらい、物ものの数かずではありませぬ」と。

越中えっちゅうの同行どうぎょう、清九郎せいくろうが無我むがの喜よろこびを見みて、一方ひとかたならず引立ひきたてられた。帰国きこくの時とき、玉譚師ぎょくたんしも同道どうどうして、飛騨国ひだのくに真宗寺しんしゅうじに参詣さんけいする。恰度ちょうどその時とき、摂津せっつ小曾根おぞねの浄光寺じょうこうじ、泰巖師たいがんしの説教せっきょうがあったが、満座まんざになってから、泰巖師たいがんしもまた同道どうどうして上方かみがたへのぼられた。長旅ながたびのことだから泰巖師たいがんしが清九郎せいくろうの老体ろうたいを思おもいやって、馬うまを雇やとうてのせようとせられた。

清九郎せいくろうは非常ひじょうに驚おどろいて、何なんというても辞退じたいする。「なぜ乗のらぬか」といえば、「御坊様ごぼうさまのとりたまう馬うまには、勿体もったいなくて乗のれませぬ」という。何なんと勧すすめても、どうしても乗のらない。

そこで泰巖師たいがんし、清九郎せいくろうにいわるるには、「これほどいうても勿体もったいなくて乗のれぬという。それほど勿体もったいないならば、御身おんみ、何故なぜ、大願だいがんの船ふねに乗のった」。

清九郎せいくろういわく、「如来様にょらいさまが、無理むりに乗のせておしまいなすったから」。泰巖師たいがんしいわく、「今いまも左様さようじゃ」と。

そこで清九郎せいくろうは止やむことを得えず馬うまに乗のった。次つぎの宿しゅくへ着ついた時とき、粉糠五升こぬかごしょうばかりを求もとめて馬士まごに与あたえ「どうか馬うまに喰くわして下ください」というて、幾度いくどか馬うまの背せを撫なでて別わかれたそうである。

寛延二年かんえんにねんの夏なつ、仰誓師ごうせいしが京都きょうとで清九郎せいくろうに遇あわれた時とき、「其許そこもとは去年きょねん越中えっちゅうへ下くだられたそうだが、往ゆくさきざきで、定さだめて有難ありがたい信者しんじゃに遇あわれたろう」と尋たずねると、清九郎せいくろうのいうようには、「有難ありがたかったのは私わたしで」と。この一言ひとことまことに妙みょうである。我等われらは、ただ他人たにんのまめやかに信しんずるを見みてうれしがり、喜よろこぶばかりにて、我身わがみの上うえには心附こころづかざるのである。けれど清九郎せいくろうは、隣となりの宝たからをかぞえず、何なににつけても自身じしんの往生おうじょうをよろこぶこと、まことにありがたきことである。

同年七月どうねんしちがつの始はじめ頃ごろ、原谷村はらたにむらの祐安ゆうあんという同行どうぎょうの許もとで仏事ぶつじがあって、清九郎せいくろうも参詣さんけいをしたが、その留守るすへ盗賊とうぞくが来きて、莚むしろの下したに入いれてあった銀札七匁ぎんさつななもんめを盗ぬすんでいった。人々ひとびとがその話はなしをきいて気きの毒どくに思おもいその旨むねを清九郎せいくろうにいうた。

すると清九郎せいくろうのいうようには、「盗ぬすみするほどのものならばよくよく不自由ふじゆうな身みであろう。私わたしのような家いえへ来きて、何なにも取とるものがなかったから、さぞ残念ざんねんであったろうが、しかし、菜種なたねを売うった代金だいきんの銀札十五匁ぎんさつじゅうごもんめほどのなかで、八匁はちもんめは春以来はるいらいの洗濯料せんたくりょうにはらい、残のこる七匁ななもんめを取とっていったが、いつもならばこの七匁ななもんめさえ無なかったのに、ちょうどよい時ときで、折角せっかく来きたのに手てを空むなしくさせず、僅わずかでもとらるるもののあったのは、うれしう存ぞんじまする」と。これを聞きいて、人々ひとびと興きょうをさまし、「盗ぬすまれて嬉うれしいとは何事なにごとぞ」。

清九郎せいくろういわく、「私わたしも同おなじ凡夫ぼんぶの身み、盗ぬすみしかねぬものなれども、今いまは御慈悲おじひより盗ぬすみ心ごころもおこらず、却かえって盗ぬすまるる身みにして下くだされたことは、どうして喜よろこばずに居いられましょう」。

或歳あるとし、霜月二十七日しもつきにじゅうしちにちの夜よる、清九郎せいくろうは自分じぶんの隠居家いんきょやで、聟むこの久六きゅうろくと共ともにお通夜つやをした。破壁やぶれかべを漏もりて来くる寒風かんぷうは刃やいばのように身みにこたえ、外面そとの一面いちめんの吹雪ふぶきである。

清九郎せいくろう、つらつら思おもうよう、御開山聖人ごかいさんしょうにんは雪ゆきの中なかで石いしを枕まくらに臥ふしたまい、法蔵菩薩ほうぞうぼさつはたとひ身みを諸もろもろの苦毒くどくの中なかに止とどるとも、我行わがぎょうは精進しょうじんして忍しのびて終ついに悔くいじ、と仰おおせられ、これら千万せんまんの御苦労ごくろうも、皆みなこの清九郎一人せいくろうひとりのためであったものを。御恩知ごおんしらずの身みの上うえも、すこしは我身わがみに引受ひきうけて喜よろこばして頂いただこうとひそかに布子ぬのこを脱ぬぎすてて丸裸まるはだかになり、表おもての方ほうへたち出でて、積つもった雪ゆきの中なかに臥ふして、御開山聖人ごかいさんしょうにんも斯様かようであらせられたかと、身みふるわせて称名しょうみょうして居いた。久六きゅうろくがそれをききつけて怪あやしみながら出でて見みると、親おや清九郎せいくろうが雪ゆきの中なかにねころんで居いて、然しかも丸まるの裸はだかである。

驚おどろいて布子ぬのこを打着うちきせて室しつに入いれ、仔細しさいを尋たずぬると、かくかくとの物語ものがたり、久六きゅうろくも今更いまさらの様ように、親おやの厚信こうしんに恥入はじいりて、その夜よるは共々ともどもに喜よろこばれたとの事ことある。

清九郎せいくろう、寛延二年かんえんにねんの冬ふゆ、ふと中風ちゅうぶうに罹かかって、歩行ほこうも出来できず、起臥きがも自由じゆうにならずして、次第しだいに疲つかれの色いろが増まして来くる。翌よく、三年さんねんの夏なつ、髪かみをおろして、病体びょうたいながら入道にゅうどうの姿すがたになったことを喜よろこんで、ますます称名しょうみょうを励はげんで居いた。人々ひとびとが見舞みまいに来きて、浄元殿じょうげんどの、浄元殿じょうげんどのと法名ほうみょうを呼よぶと、清九郎せいくろうは頭あたまをふって「いや、私わたしはただ入道にゅうどうで」という。法然上人ほうねんしょうにんが「尼入道あまにゅうどうの無智むちの輩ともがら」と仰おおせられ、蓮如上人れんにょしょうにんが「一文不知いちもんふちの尼入道あまにゅうどう」とのたまう御言おことばなどを思おもうての事ことであろう。

愈々いよいよ病気びょうきが募つのって、もう長ながくはあるまいという時とき、見舞みまいに来きて居いる同行達どうぎょうたちが、「清九郎殿せいくろうどのほどの御信者ごしんじゃだから、臨終りんじゅうには定さだめて不思議ふしぎなことがあるであろうとて、専もっぱら世間せけんで噂うわさして居いる」と話はなしあうて居いるのを、清九郎せいくろうきいて言いうようには、「皆様みなさま御存知ごぞんじの通とおり、罪悪生死ざいあくしょうじの清九郎せいくろうが、この度たびは如来にょらいの御おんはからいで、浄土じょうどの往生おうじょうを遂とげさせていただきます。これに過すぎたる不思議ふしぎはありますまい」。

斯かくて清九郎せいくろうは、口くちに余言よげんをあらわさず、専もっぱら称名しょうみょう絶たゆることなかったが、呼吸こきゅうも短みじかく、苦くるしげに見みゆるから、傍かたわらに居いる久六きゅうろくが、「息いきざしも苦くるしそうだから心こころに喜よろこばれよ」というと合点がてんしたようで、しばらくは念仏ねんぶつの声こえを休やすめて居いたが、いつとなくまた称名しょうみょうして絶間たえまがない。寛延三年庚午かんえんさんねんかのえうま、八月四日午刻はちがつよっかうまのこく、遂ついに往生おうじょうの素懐そかいを遂とげられた行年七十四歳ぎょうねんななじゅうよんさいである。