葛飾北斎の『富嶽百景』初編には、江戸時代の戯作者・柳亭種彦が書いた序文があります。
江戸時代の書の序文にはその時代ではわかるが、文化人や著名人が書かれています。今の書籍で言うところの、帯の紹介文に少しだけ近いかもしれません。ただ、序文を書いている人が今となっては誰なのかが特定できない作者の号(ペンネーム・雅号)や、出版元である書肆(本屋)の堂号・屋号します。
そこでは単に「北斎の絵はすばらしい」と褒めるのではなく、富士山と北斎を重ねながら、その名声や『富嶽百景』の魅力を語っています。まず原文と現代語訳で全体の流れをつかみ、そのあと登場人物や言葉の意味を見ていきましょう。
柳亭種彦による『富嶽百景』初編の序文
契沖が富士百首は突兀として顕れ、東潮が不二百句は綵雲にかくれて見えず。
今新に百嶽を図するは前北斎翁也。此山や独立して衆峰の巓を出つ。翁の画も又独立して其名高き事、一千五百丈に過なむ。
画帖諸国にわたり懐蔵する者最多し。豈十五州の壮観而巳ならむや。
不二の十名を秘藏抄に載たり。先生屢名を改む。かぞへなば十名にも満べし。
それかれ因あればにや。此岳を愛ること年あり。
近く田子の浦に見あげ、三保か崎に望ば、隈なき月、盛なる花のこゝちして、風情薄しとてか、
遠く富士見原に杖をひき、汐見坂に駕をとゝめ、柳の絲になたれを透し、稲葉の戦ぎに高根を仰き、
逆浪巖を碎くの大洋、白雲谷を埋る羊膓、嶮阻に上り危に下り、真景を寫されたれば、
翁の精神此巻に止り、端山しげ山、世にしげき画本の峯巓を突兀と出む事、阿闍梨の百首に劣らめやと。
天保甲午綠秀
柳亭種彦敬白
董斎盛義書
序文の現代語訳
契沖の『富士百首』は、富士山が高くそびえるように、数ある作品の中でもひときわ抜きん出ています。一方、東潮の『不二百句』は、美しい雲に隠れた富士のように、その姿が見えません。
さて今、新たに富士を百の景色として描こうとしているのが北斎翁です。富士山が多くの山々より高くそびえているように、北斎の絵もまた他から抜きん出ており、その名声の高さは千五百丈をも超えるほどでしょう。
北斎の画集は諸国に広まり、大切に所蔵している人も非常に多くいます。その評判は、富士を見ることのできる十五州だけにとどまるものではないでしょう。
富士山には十の異なる名前があると『秘蔵抄』に記されています。北斎先生も何度も名前を変えてきました。数えてみれば十ほどにはなるでしょう。富士と北斎には、何か不思議な縁でもあるのでしょうか。北斎は長い年月、この富士山を愛してきました。
田子の浦から富士を見上げ、三保の崎からも眺めました。しかし、そうした名所から見る富士は、雲一つない月や満開の花のように、あまりにも整って美しいため、かえって趣が足りないと感じたのでしょうか。
そこで遠く富士見原まで足を運び、汐見坂では乗り物を止め、柳や風にそよぐ稲の葉の向こうに富士の高い峰を仰ぎました。
さらに、波が岩に砕ける海辺や、白い雲が谷を埋める曲がりくねった山道にも入り、険しい場所を登り下りしながら、実際に目にした景色を写し取ってきました。
そうして描かれたこの一巻には、北斎の精神が込められています。世の中に山々が数多くあるように絵本も数多くありますが、『富嶽百景』はその中から富士山のようにひときわ高くそびえ、契沖の『富士百首』にも決して劣らないことでしょう。
天保5年(1834)3月
柳亭種彦 謹んで記す
董斎盛義 書
※原文の「柳の絲になたれを透し」は、読みと意味の確定が難しい箇所です。現代語訳では前後の流れから、柳越しに景色を見る場面として訳しています。
江戸時代の序文は誰が書いた?
江戸時代の本では、作者本人だけでなく、同じ時代に活動していた学者、僧、戯作者、俳人など、作品や作者と関わりのある文化人が序文を寄せることがありました。
現代の書籍でいえば、序文や推薦文、帯に載る紹介文を合わせたような役割に、少し近いところがあります。作品の内容を紹介するだけでなく、「この作品にはどのような価値があるのか」「作者をどう評価しているのか」を読者に伝える文章でもありました。
そのため、序文は「何が書かれているか」だけでなく、「誰が書いたのか」も重要でした。当時の文芸・出版の世界で知られた人物が序文を寄せていれば、その人物が作者や作品をどのように評価していたのかを知る手がかりになります。
ただし、名前を見ればすぐに人物が分かるとは限りません。江戸時代の文化人は、本名ではなく雅号や別号などで署名することが多く、現在ではその号が誰を指しているのか特定できない場合がたたあります。
出版に関わった書肆(本を出版・販売した店)側の人物が、店の屋号や堂号に結びついた名乗りで登場することもあります。当時の文芸・出版関係者には通じた名前であっても、現在では実名や詳しい経歴が分からなくなっていることがあります。
そこで、ここからは序文に登場する人物について、分かっている場合は代表作や活動、その後への影響まで簡単に紹介します。一方、号だけが残り、人物を確実に特定できない場合は、無理に断定せず、現在分かっている範囲を紹介します。
序文に登場する人物
柳亭種彦|序文を書いた戯作者
柳亭種彦(1783~1842)は、江戸時代後期の戯作者。武士として幕府に仕える一方で読み物を執筆し、代表作『偐紫田舎源氏』は歌川国貞の挿絵とともに人気を集めました。
北斎と同じ時代の文芸・出版の世界にいた種彦が『富嶽百景』を高く評価していることも、この序文を読むうえで重要な点。
葛飾北斎|『富嶽百景』を描いた浮世絵師
葛飾北斎(1760~1849)は、『冨嶽三十六景』『北斎漫画』などで知られる江戸後期の浮世絵師。『富嶽百景』では、一つの富士をさまざまな場所や暮らしの中から描きました。生涯に何度も画号を変えたことが、この序文の言葉遊びにも使われています。
契沖|古典研究でも知られる僧・学者
契沖(1640~1701)は、江戸時代前期の真言宗の僧・古典学者。『万葉代匠記』『和字正濫鈔』などを著し、その研究は後の国学にも影響を与えました。富士を題材にした『富士百首』も残しています。
東潮と董斎盛義
東潮は『不二百句』の作者として登場しますが、詳しい人物像ははっきりしていません。董斎盛義は、序文末尾の「董斎盛義書」に名があり、柳亭種彦が作った序文の文字を書した人物です。
契沖の『富士百首』から始まる理由
契沖が富士百首は突兀として顕れ、
東潮が不二百句は綵雲にかくれて見えず。
「突兀」とは、高い山が周囲から突き出してそびえるような様子です。種彦は契沖の『富士百首』を、まるで富士山そのもののような言葉で高く評価しています。
さらに「富士百首」「不二百句」という富士を「百」で表した作品を並べたあと、「今新に百嶽を図するは前北斎翁也」と北斎を登場させます。百首、百句、百景というつながりを作っているのです。
富士の高さと北斎の「名の高さ」
此山や独立して衆峰の巓を出つ。
翁の画も又独立して其名高き事、一千五百丈に過なむ。
「衆峰の巓」とは、多くの山々の頂のことです。富士山は周囲の山々よりもさらに高く、ただ一つ抜きん出てそびえています。
種彦は、その姿をそのまま北斎に重ねました。「翁の画も又独立して」と続けることで、多くの絵師や作品を山々に見立て、その中から北斎だけが富士のように高く抜きん出ている、と表しているのです。
さらに面白いのが「其名高き事、一千五百丈に過なむ」です。「名高い」には「有名である」という意味がありますが、ここではその「高さ」を山の高さに置き換えています。
一千五百丈は、現在の長さに換算すると約4,545メートル。もちろん実際の高さを述べているのではありません。北斎の名声は、山にたとえるなら一千五百丈を超えるほど高いと、大げさなほどに称賛しているのです。
つまりここでは、多くの山々から富士が抜きん出るように、多くの絵師の中から北斎が抜きん出ているという比喩が使われています。富士を描く北斎を、種彦は北斎自身もまた「絵の世界の富士」であるかのように描いているのです。
北斎の富士は諸国へ広がる
画帖諸国にわたり懐蔵する者最多し。
豈十五州の壮観而巳ならむや。
実際の富士山を見ることのできる場所には限りがあります。しかし、北斎の描いた富士は版本となり、諸国へ運ばれていきます。
種彦は、北斎の描いた富士は、本物の富士を見ることのできる範囲さえ越えて広がっていると称賛しているのです。
富士にも北斎にも多くの名前がある
不二の十名を秘藏抄に載たり。
先生屢名を改む。かぞへなば十名にも満べし。
富士には多くの異名があり、北斎も北斎、戴斗、為一、画狂老人卍など、生涯に何度も画号を変えました。
種彦はそこにも共通点を見つけ、「それかれ因あればにや」と、富士と北斎には何か縁でもあるのだろうかと面白がっています。
名所の富士は「美しすぎる」?
近く田子の浦に見あげ、三保か崎に望ば、
隈なき月、盛なる花のこゝちして、風情薄しとてか。
田子の浦や三保は、昔から富士を見る名所です。しかし種彦は、そこから見る富士を「雲一つない月」「満開の花」にたとえたうえで、「風情薄し」と続けます。
美しくないという意味ではありません。あまりにも整った美しさだけでは、変化や意外性に乏しいと北斎は感じたのではないか、と種彦は考えているのでしょう。
暮らしや自然の向こうに見える富士
遠く富士見原に杖をひき、汐見坂に駕をとゝめ、
柳の絲になたれを透し、稲葉の戦ぎに高根を仰き。
柳や風にそよぐ稲の葉の向こうに富士を見る。ここで描かれているのは、富士山だけではなく、何を通して、どのような場所から富士を見るのかという体験です。
『富嶽百景』にも、建物や木々、人々の仕事道具などの向こうに富士を見せる作品が数多くあります。
「真景」を描く北斎
逆浪巖を碎くの大洋、白雲谷を埋る羊膓、
嶮阻に上り危に下り、真景を寫されたれば。
「羊腸」は、羊の腸のように細く曲がりくねった道のこと。そして重要なのが「真景」です。
「真景」は実際に目にした景色という意味です。種彦は、北斎が決まりきった形の富士ではなく、海辺や山道などさまざまな場所から見える富士を写し取ったことを評価しています。
最後には『富嶽百景』そのものが富士になる
翁の精神此巻に止り、
端山しげ山、世にしげき画本の峯巓を
突兀と出む事、阿闍梨の百首に劣らめやと。
最後になると、北斎だけではなく『富嶽百景』という本そのものが富士にたとえられます。
序文の最初では、契沖の『富士百首』が「突兀として顕れ」ました。そして最後では、『富嶽百景』が数ある絵本の峰から「突兀と出む」とされます。
つまり種彦は、契沖の『富士百首』から文章を始め、最後に北斎の『富嶽百景』をそこへ並べ、富士を題材とした優れた作品として決して劣らないと結んでいるのです。
柳亭種彦は北斎を「富士」に重ねた
序文を通して見ると、富士、北斎、『富嶽百景』という三つが重ねられていることが分かります。
富士が山々より高いように北斎も絵師の中で抜きん出ている。富士に多くの名前があるように北斎にも多くの画号がある。そして最後には、『富嶽百景』そのものまで数ある絵本の中にそびえる富士にたとえられました。
種彦にとって北斎は、富士を描く絵師であると同時に、富士そのもののように絵の世界から高くそびえる存在だったのでしょう。
『富嶽百景』初編の原本と全作品を見る
『富嶽百景』初編の原本画像や収録作品一覧は、「浮世絵夜話」でまとめて見ることができます。




