妙好人伝全集 古昔の巻 第一編
大正4に出版された妙好人伝全集 古昔の巻 第1編から始まる。
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⇒妙好人伝全集を読む|古昔の巻 第一編・『はしりがき』から『目次』【現代表記・総ルビ】
山城国
一 七郎右衛門
享保年中京都六条油小路に高槻屋七郎右衛門という信者があった。入道して法名を自休と呼んだ。
或年の九月二十八日、大谷の報恩講に参り御法事終わりて、大谷の茶所に休息して頓死し果てた。
所が醍醐の里に弟があったが、その日の七ツ時、自休、弟の宅へ尋ねて来た。弟迎えて「思いよらざる御出である。いざこなたへ御上り下され」と案内した所が自休庭へ立ちながら、開山の御召しによりて参るなり跡をしたひて法を味わえと詠じてそのまま帰って行ったから跡より追いかけたるに其形を見失うてしまった。人々あやしみ京へ使をつかわし、安否を尋ねたるに京よりは自休頓死のよしを告げて来た。そして両使途中にてゆき合ったという。不思議な事であった。
二 さと女
山城国宇治郡山科の音羽村に木屋清右衛門という人があった。その娘さとは生質柔和にして幼少の時から父清右衛門に従うて、法座へ参詣し、ふかく仏法の理を明らめ、常の遊戯にも仏前荘厳の真似をし、友達をあつめて参詣させ、平生聞覚えたる地獄の苦相、また極楽の体相などを物語り、念仏をすすめて居た。
父母も共に仰信の者であったから深く是を喜び、法座とさえいえば風雨の中をもいとわず、この子をいざなって参詣したから、いよいよ信心堅固にして、父母も是がために引立てられ、益々喜びのいろを増すようになったこの子十七歳の春、京都新車屋町伊勢屋定七という八百屋商売の家に入嫁して、後も念仏勤行怠らず、よく舅姑に仕え、いささかも争う事なくまた町内でも貧しきものが野菜を調えに来る時は利分を薄くして多くこれに売り与えた。この事、近隣に評判し、商い日頃に十倍するに至った。だから姑もこれを喜び、まことの子のごとく愛ていつくしんだので、いよいよ家内睦敷、日々に商い繁昌し、家益々栄えるようになった。
所が嘉永二酉年正月、風の心地とて打臥したるに数日頭をもたけず、医療も手を尽せどもそのしるしなく、親里へ帰りて養生したいというから早速駕籠を雇い、音羽村に送りたるに、次第に体が疲れて其年の閏四月十六日。朝俄然として念仏の息絶え果てた。すべて病中苦痛を厭わず、昼夜称名念仏怠る事なかった。命終の後胸のあたり少しあたたまりがあったのでまず仏前に据え置き親族にも告げ、それぞれの用意を調えた。
すると二時計りして、うというて起きあがったから、父母をはじめ、打寄りたる親族打驚き、屏風を引き明けてみれば、こは如何に今までとは事変り顔色平生のごとく、さらに苦痛の様も見えず、満面に笑を含み、言説さわやかにして語るよう、妾、いま命終したと思うて目をひらきみれば、金銀をちりばめたる高さ数十丈の楼門のごときものの前へ行きました。
暫くして楼門が両方へ開くように見えましたが瑠璃の大地には百宝の楼台があり、七宝の樹木の間には鸚鵡・舎利・迦陵頻伽のもろもろの鳥ありて、微妙の法音をさえずり、無量の菩薩その中に遊戯し、また八功徳の池には五色の蓮華が咲き乱れ、無辺の聖衆そのうえに遊びたのしみ、正面には金色の山のごとくなる仏身、百宝の華台に端座して説法ましまし、無量無辺の菩薩聖衆、百重千重囲饒して聴聞し給うありさま、娑婆にありて聞きたるには百千万倍こえすぐれたる体相をまのあたりに拝み奉り、ありがたさいわんかたなく、ただひれふして居ました所へ一人の菩薩、我前に来り給い汝よう来て呉れた。善哉善哉との給う御声の殊勝さ、有難さ何にたとえんようもありませぬ。
暫くして宣うには汝が父母は信心堅固のものである。命終せば必ずこの所へ生ずるであろうが汝が姉は不信のものだから臨終の後は地獄へ堕在することだろう。然し捨てがたき宿縁あれば、はやく仏道に帰し一念の信心をおこさば、必ず一蓮託生することが出来ようからこの事を告知せて来よ。汝が往生は今日であるから早く来れと仰せらるるかとおもえば、夢の覚めたるがごとくである。あらきたなや、かかる不浄の娑婆には片時も止まることは出来ぬとて、目を覆うた。
そこで父母をはじめ、あり合う人々、この事をきき、且つは喜び、かつは驚き、異口同音に称名念仏した。かく物語の後二時ばかり巳の下刻と覚しき頃、俄に目を開き、あれ見られよ。聖衆が迎えに御出で下さる。今生の対面もこれまでである。極楽浄土で半座を分けて待ち申しましょう。父母をはじめみなみな早く来て下されと高声に念仏三遍唱えて息絶え果てた。
かくて父母親族もなげきの中にも、かかる奇瑞をまのあたり見聞し、目出度く往生を遂げた事を喜び同村光照寺へ葬送し、法名を釈尼妙華と名づけた。
三 きく女
山城国上狛村七兵衛妻きくといえるは、殊の外仰信の人で、常に称名念仏怠りなく、御法座とあれば、慰みすすみて参詣をいたし、又世間の交りも柔和で人にも愛せられたので、其夫の七兵衛も随喜して、弥陀の本願を信じたてまつり、国法の掟をも如実に守ったから御領法から褒美を頂戴した事もあった。尤も妻のきくは一方ならぬ信者で、厚く御恩を喜んだが、安政五年十二月の初から病気となりて、十六日に六十三歳を以て往生した。
所が二日目に蘇生して家内の者を始め、集りたる人々に向いていえるようは、私は仕合者で命終るなり、極楽へ往生を遂げましたから扨て其御浄土は、黄金の大地で種々の妙花降り下りて、其美しきこと言うべき言葉もありませぬ虚空には常ならぬ美々敷烏、微妙の声をして囀る、音もきけば、何となう心開けて有難ことかぎりがない。向の方をながめると黄金の山を飾立てたように見え給うは即ち浄土の御主、阿弥陀如来、光明を放ちて十方世界を照らして居らるる。又右と左に並び給うは観音勢至の二菩薩である此三尊を拝み奉る有難さ、何と譬えんかたもありませぬ。扨また宝づくしの宮殿楼閣、数もかぎりもなく立ちならびてしかも七宝の欄干のかざりがある。
宝の樹、花咲き満ちて、その香ばしき事いうばかりもない。風鈴ありて風そよげば微妙百千種の音楽がきこえて、その面白さ尊さ、譬えんにものもない。八功徳の池には、五色の蓮華鮮かに開きて、花ごとに五色の光がある。池の底は七宝荘厳になって居る。菩薩聖衆光明赫奕として蓮に乗り給えば蓮華自然と池中をめぐり、手に掬わんとしたまえば、水おのずから思う所へ上りて、只何ごとも心に思うままである。風そよきて宝池の波を吹きあぐれば、水よりは自然の音楽があらわれて、面白さ、有難さ、申すもなかなかおろかである。
扨て宮殿楼閣の中からば先に往生し給うた菩薩達、美しき衣を召し花をかざりたる装いで、さも嬉しげに大勢打連れて、如来を囲遶なされ御説法を聴聞して喜び給うもあり、或は菩薩たち手に楽器をとり、音楽を奏して楽しみ給えば、百味の飲食は自然にそなわりて快楽し給うものもある。或は美しき天人、宮殿に乗り虚空をめぐるもあり、又は菩薩聖衆たち色々供養して回り玉うもあり、その結構さ申し尽し難い。殊に有難いのは我身をながむれば、今まで病の床にありて、垢によごれ、汚穢不浄の姿、歩行も叶わぬ不自由な身ながら、息引取るなり、蝉のもぬけを見るごとく、彼浄土に往生せば、十方世界を見る事、鏡にうつすがごとく明らかである。
然るに此娑婆を見渡したるに毎日毎日死ぬる人は幾千万人と数知れぬに浄土へ参る人は至って希であるからいずれも今日から後生の一大事に心をかけて、本願の御謂れを明らかに聴聞して、追附け参らせて下さるる物をと喜び暮して下され、慇に告げたので、皆々随喜の信を生じ、涙にむせんで喜んだ。夫よりきく女、苦痛もなく、三日目に眠がごとくで、目出度く往生を遂げ果たした。
四 おくり
京都六角通りに藤屋又兵衛という人があった。其女をお栗と名づけて幼稚の時から賢く、常に父の正信偈和讃など唱うるをきき覚えてよくこれを誦した。
かくて父も慈愛あさからなかったが、享保三年戌の十一月四日の頃から痘瘡重くして医術も及びがたくなったのでこの女初めのほどは死ぬべきことを悲しんだが、後には助かるまじと知るより父に語っていうよう、私今日まで後生の一大事をうかうかと聴聞致して居ましたのに今此場にいたりては外にたのみもありませぬ。只仏の御慈悲を信じて浄土へ参りたく思いまするので、その御義をねんごろに教えて下されというので、父母もその志の有難きを感じて涙ながら勧めるようは、この仏をたのみ奉るというはなにのむつかしき事もない。
ただ六字の御義をよくきけば衆生の勤める願も行も如来の方に御つとめ下されて、夫を衆生にあたえて助くるとある御意をまうけにするばかりで早くも摂取の光明におさめ取るとあるからは疑いなく信じまいらせて只その上は御たすけ下さるる事の有難やと御恩の称名を喜ぶばかりであるとねんごろに教えた所女、立所に信心歓喜の思いふかくなりて云うようは、痘瘡が口の中に出て、念仏を称える事もなりがたい。
只たすけ給う事の嬉しやありがたやと心に喜びてはいかがであるかといえば父母の言うよう、なるほど心に念じて喜べば念声是一とも聴聞申した事もあれば同じ事であろうぞといえば、女うれしき気色にて息苦しき中からも南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と言う声が聞えたが同九日の夜から殊に苦しみつよくなり、如来様の尊像を拝みたいというので、仏壇の戸を開けば、頭をたれて尊敬の顔をあらわし、恭敬の思いことにあさからなかったが、其夜いささか眠るが如くして、忽ちに目をさまし、父母及び傍なる同行の人々に対していうよう、只今ありがたき事があった。
阿弥陀如来の来らせ給うて我にこのうつくしき玉を下された、これ見給えとて手をひらき見すれば本より凡眼の見るべきものではなかったが傍なる人々のいえるよう、それこそ汝が信心の深きによりて仏様から賜わった信心の宝珠と云うものであろう。
弥たのもしく思いて喜べよというに、又かの女の言うよう、只今またかくの如く仏の光明の眼前にかがやき給うを皆人は拝まれなかったが、扨もありがたきことであったと感心ふかきあまり、南無阿弥陀仏と称えて、心やすく名号の唱えらるるようになったから、いよいよ不思議なる事であると自らも喜び、他の人々も感じて居たがそれより称名の声たえずして同十二日の暁卯の時ばかりに、病急になりて命終せんとするとき、今までは横に臥して居たものが忽ちに起きあがり、其身かろげに本尊の方に向いて、合掌し跪坐して、晏然として称名もろともねむるが如くに命終った。時に歳漸く九ツであった。
五 西六条非人
文政の頃、京都西六条新町に四十計りの乞食の男があった、昼は日終この所を徘徊し、食を乞い、夜はまたここの軒端かしこの厩に臥し、暁にいたり、御堂の門の開くを待ちて階下に跪き、勤行のはつるまで合掌念仏し、夫から市中にいてて食を乞うこと常のごとくであった。人食を与え銭を与う人あれば、因縁なりとて喜び、あたえぬも因縁なりとて恨むる色なく、また小児の大勢集りて、或は礫を擲ち、かつぎたるこもを引き破りなどする事があっても、因縁なりとてさらに瞋り争うこともなかった。だから人呼んで因縁乞食というて居た。
或としの正月、例の通り軒下に臥し居たるに、この町の近江屋何某というもの、いたく酒に酔い、夜更けて帰りたるに小便がしたくなりこの乞食の臥し居たるを夢にも知らず、頭から尿をかけたるに、乞食目をさまし、因縁なりとつぶやき、かたえににじり寄ったから、何某驚天し汝が臥し居たるをさらに知らず、不浄をかけたること堪忍して呉れよと詫びた。
すると乞食大いに迷惑の体で、是れ全く我臥所の悪かったからで、貴方を驚かしたのであります。これ因縁なれば、かならず詫びては下さるなと少しも恨むる気色がなかったからこの人、大いに感じ汝もしわが存生のうちに死することあらば、よきに葬り得させるであろうと堅く約して帰った。かくして二月ばかり過ぎて、或日、町内に非人が死んだといいさわぐに、もしやとて行きてみれば、まがう所もなく、因縁乞食であった。
そこで先日の約を思い、町の長に乞うて、死骸を我家に引取り人を雇うて沐浴させ、棺に納めて、七条の道場で火葬に附した。その翌る朝、家内に取込みの事ありて、収骨を忘れ居たるに、道場の者走り来りて、疾く収骨に参られよと促したから今日は家内に取込みの事ありて、忘れて居た。よきに計らうて呉れよとたのめば、そは容易の事ではあるが、誠に不思議の往生人であった。
自分は数千人を火葬したが、未だ恁な希代の事を見ないというて頻りに嘆ずるので、かねて床敷思うて居た折、この話をきき、何事もすて置きて急ぎ道場へゆきてみれば、焼けたる灰、紫の色に変じ白骨悉く舎利となり、瑩徹する事水晶のごとくであったので、大いに驚き感嘆し、早速に親族知音の人に告げ知らせ、この舎利を分けとり、結縁のためにとて内仏に安置する人も多かった。往生の日は三月十五日であったとの事である。
大和国
一 清九郎
霊元帝の御宇延宝六年、大和国吉野の西北、約二里、矢田の在所に初声を挙げた。
その後、双親は清九郎をつれて、矢田から六町ばかり西の丹生谷へ引越した。今でも矢田の村端には、清九郎屋敷という畑地が残って居る。双親のことは委しくは知れないが、何でも余程の貧しい生活で、いわば水呑百姓であったから、清九郎を育てるにも随分苦労をしたらしい。とても自家ではしこめぬからとて、さる大家の百姓へ奉公をさせたが、そのうちに父親が亡くなったから、妻を娶って親の後を継ぐことになった。もとより財産などのあるべき身分で無いから、馬追をして漸くその日を送って居た。
馬士といえば何所でも粗暴なものであるが、中にも清九郎は、小男でありながら強のもので、馬を追うにも鞭をつかわずに拳固で殴る相撲もとる、大酒も呑む、そればかりでなく、喧嘩口論といえば何時も先だちてゆく。こういう風情であったから、だんだん他から疎まれて、終には対者にするものさえ無くなった。ある年のこと、霖雨が続いて仕事が少いから、貧しい生活がだんだん貧しくなってくる。仕方がない、ありあう小道具を売払ってはやっとその日を送って居た。もとより茅屋のことだから、頻りに雨漏りがしてもそれを塞ぐものが無い。
そこで隣家の荒菰に目がついた。人は窮ると存外無分別になるものである。
清九郎は、決して善いこととは思わぬが、苦しい余りに、つい一枚とり、二枚盗み、五枚まで窃取って、我家の雨漏りを塞ごうとした。それと覚った隣家の主人は、清九郎の家へ飛込んで、散々清九郎を罵った上、その荒菰を取返した。さすが粗暴な清九郎もこの時ばかりは頭が上がらなかった。こういうことがあった為に、村に住むのが何となく恥しうなったのでこの丹生谷から十八町ばかりの峠を越えて吉野郡へ下ると、鉾立という村に知己の馬士があるのを便って、そこへ引越した。世に「鉾立の清九郎」というはこれからである。
清九郎が鉾立へ移ってからは、博奕や大酒は女房の諫でふっつりと止め、まじめに家業を励んで二年程は無事に暮して居たが、清九郎三十三歳の時、女房は仮初の病が原因となって、遂に果敢なくなった死ぬるいまわの際に、夫の清九郎と、一人の娘を枕頭に招き、涙を払っていうようには、「此度の病気はとても癒る見込みがないから、妾はお先へ参りまするが、それにつけても、必ず必ず、博奕と大酒とは思い止まってたまわりたし。又、娘も幼い身の上だから、随分不便を加えて養育して下され。娘も妾の亡くなった後は、ひとしほ父上を大事にせよ」
と、懇に言残して帰らぬ旅路に赴いたのである。女房に死別れた清九郎、悲歎のあまりに前後も取乱して、恰も狂気のようであったから、中には後指さして嘲り笑うものもあり、中にはさまざまに慰めてくれるものもあったが、少しも聞きわける様子なく、帰らぬ愚痴を繰返しては、涙のうちに空しく月日を送って居た。
所が或日、一人の知人が来て清九郎にいうようには、「そなたの嘆きは理だが、然し何ほど歎いても、とても回らぬことだから、とにかく心をとり直して仏法でも聴かれたなら、一つはそなたの身のため、一つは女房の菩提にもなるであろう。幸いこの下市で、桜の法会がつとまって、有難い説教があるとのこと、私も行くからそなたもつれだちて来なさい」と、強いて勧めるものだから、仕方なく清九郎も参詣することにした。始めて聴いた仏法の御謂れ、この世は常住の所でない、一息つがざれば千歳長うゆく。無常の嵐の誘い次第、恐しい暗路に流転せねばならぬ。そういうものを御目当に御成就下されたが如来の本願、「たのめ、たすくる」
の喚声の疑いなく信ぜられたものならば、立ちどころに心光常護の益を蒙り、命終れば無上涅槃の証を開かして下さる宿因深厚の故であろう。懇なる御化導に耳傾けた清九郎、今更のように驚いた。仏法といえば他人の事とのみ思うて居たに、聞けば全く自分のことであった。喚ばれて居るのは自分である、助けらるるのは自分である。流転といい、涅槃といい、本願の御成就といい浄土の御建立といい、皆この清九郎のことであったと知られた身がどうして驚かずに居られよう。
清九郎の心機は全く一転した。斯くて清九郎は光明の生活に入ったのである。老後、清九郎が土地の領主の母君に召出されて、「その方はいつごろから御信心を頂いたか」と尋ねられた時、「願うべきは浄土なりと思いそめたは、三十二三の頃かとも覚えますが、そのころは出離の道について、兎や角疑いがありましたに、いつしかその疑い晴れて今は近づく浄土をたのしみに、御報謝の称名を喜ばしていただくのは、全く他力の御催しぞと有難くそんじて居りまする」と答えたのでも女房の死別が大因縁であったことが知らるるのである。一度御法を聴聞して、如来の御慈悲に打明かされた清九郎、この世からなる生まれかわった人となった。
相替らず馬追の渡世をして、御法義を喜んで居たが、その中に馬が死んだから、懇にそれを弔うて、またもとの農業をいとなみ、三年ほど鉾立に暮して居たが、丹生谷の同行の懇望で、再び生地の丹生谷に帰ることになった。丹生谷へ帰ってからは、農業の隙に、山で柴を刈取って、それを売っては生活をした。買人が「いくらか」と尋ねると、「いくら」と応える。「それは高いから、いくらにまけよ」といえば、一も二もなく言う通りにする。だから、終には、清九郎の売る柴は、一人として直限るものがなくなったばかりでなく、中には増銭をやるというものが出来てきた。が清九郎は決してそれを受取らない。「それでは寺の賽銭に」といえば、それを受けて押戴き、残らず仏前に捧げて終う。
また他の柴売の売ったのが、自分のより廉かった話を聞く時には、以前に売った家に往ってこの前に柴代が五文多かったから、六文多かったからというて、何所へも一々戻して回った。
清九郎、毎年五六度は必ず京都の本山へ参詣したが、その度ごとにいつも薪を献上する。その薪は、幾度となく水で洗い、乾かしてはまた洗って、不浄の場所には置かぬよう、ひとかたならず気をつけたものである。本山でも、そのまことに感じて、清九郎の献上した薪は別にして、御仏飯を炊く料にせられたということである。
清九郎には一人の年寄った母があった。
清九郎が京参りを勧めても齢を取ったからとて聴かれ無い。
そこで清九郎のいうようには、「それでは私が負って参りましょう、それとも駕舁を一人雇って、私が一人合棒でやれば、御前も楽ではあるけれども、清九郎風情のものの親が、駕籠で京参りをしたというては、世の聞えも悪いから、窮窟ではあろうが、どうか私に負れてください」というて、母を背負いて二十里の道程を上り、本山に参詣して、下向にも亦背負うて帰ったとのことである。
ある時、清九郎、親の枕を天井に吊って置いたから、見る人が不審に思うて、なぜそんなことをすると尋ねると、「親の頭に用いたものを、若し闇がりで足にでもかけると勿体ないから、こうしておいて、見るたび毎に親の恩を思出させて頂きます」と答えた。その孝心の深いこと、さまざまの噂が伝わって、その土地高取の領主出羽守殿の耳に這入った。世の模範ともなるからとて、褒美に米五俵を下された。
清九郎驚いていうようには、「親につかえるのは子の当然で、何も珍しいことではありませぬ、それに御褒美を頂くなどとは勿体ない。私は柴売の渡世をして、その日に不足もありませぬから」とて、辞退してお受けをしないから、領主は益々その志に感じて、再び清九郎を膝近う呼寄せ、鳥目十貫文を賜わって、「領分の山なれば何所でも苦しうない。汝がこころまかせに柴を刈れ」との御許しが出た。
清九郎は喜んで家に帰り領主からの賜物、みだりに使うは勿体ないからとて、一文も残らず本山へ献上して終った。鉾立の庄屋角兵衛、ある時、今井町の代官所へ上ったついでに、おなじ町の小間物店へ立寄った。話のついでに清九郎の噂が出る。
すると店の亭主が、「清九郎といえば、私はあの人の親父に、小間物の売代が六匁程貸してあったが、むこうは疾くに亡くなったから、つまりは此方の損です」という。角兵衛、帰って後、そのことを清九郎に語ると、清九郎は非常に喜んで、早速銀六匁余を調え、急いで今井の店に赴き、訳をいうてその銀を出す。亭主は大いに驚いて、「何も済まして貰うつもりでいうたのではない、御前の噂が出たにつけて、つい思出したままいうたまでのこと。これはどうしても受取れぬ」という。
清九郎いうよう、「親の借財は子の借財それを済ますのは当然でありまする」、どうしても聞入れる様子がない。
そこで亭主もその志に感じて、半金我方に貰い受け、半金は無理に清九郎へ押戻した。仕方がない、清九郎も受取って押戴き、帰途、宿坊の因光寺に立寄って、その銀を布施として、親の逮夜の仏事を営んだ。
その後、清九郎、御所の町の商人に、綿を売ったことがある。しばらく経てから、清九郎、その商人の店に立寄ると、商人のいうには「清九郎殿、お前は善い折に売られたよ、今では一度に相場が下がって、どうしても十八匁の損でしょう」。これを聞いた清九郎、心の中で気の毒に思い、うちへ帰りて銀を調え、その足で御所へ赴いて、それを先方へ渡そうという。商人は胆を潰して、「清九郎殿何をなさる。損するも儲かるも商の習い。たとひ私が十八匁儲けたからとて、一文もそなたに返す筈もなく、損したからとて貰う筈もない」とつき戻せば、清九郎、「商人が儲からのうては立ちゆきませぬ。それを私が損をさせては」とて聞入れぬ。
商人も困って居る所へ、隣家の同業者が立入って、さまざまに執成した結句、これを折半することになる。その半金を懐にした清九郎、直に上京して之を本山へ献納した。
ある日清九郎、上納の年貢米二俵をこしらえて庭に置くと、その夜盗賊が這入って持出しかけた。ふと眼を覚ました清九郎、その有様をみて声をかけ、「それはお前にあげるから、遠慮のう持って行かしやれ、貰うたといえばお咎めはないから、心配せずとも宜いしが、それでは手前持ちにくかろう。明晩来て下さるなら、銀にして置きましょう」という。盗賊もたけだけしい、「そんなら銀にしておけ」というたまま出て行った。
翌朝、清九郎は早速それを売払って、夜半まで待ったが盗賊は来ない、「こんなことなら、米のままにやって置けばよかったに」と、思うたけれども仕方がない。
すると、四五日経て後、夜窃かに例の盗賊が忍んで来た。「先日約束の銀を受取ろう」という。
清九郎のいうようには、「あの朝急に売ったから、今日の相場とは廉いけれど、堪忍して持ってゆかれよ」、差出す銀を引取りて、何心なく清九郎の顔をみた。如来の大悲にうちあかされた触光柔軟のその面ざし、莞爾とした無邪気の姿を眺めては、流石の盗賊も心を動かさずには居られない。一旦奪った銀を投出して、急に立って帰ろうとする。
清九郎、慌てて引止め、「折角の私が志、どうしてお前の気にいらぬぞえ」。「だって貴様は正直過ぎる。何だか馬鹿げて取栄えせぬから、まあ、この銀はよしにしよう」。「そういわずとも持って往かしやれ」。「いや、どうしても此銀はとらぬ」。「それなら、お前は善人じゃのう」、と、いわれて盗賊は黙って居る。「善人じゃ、立派な善人じゃ、それほど立派な善人でありながら、暗がりに居るとは可惜ごとじゃ、何故、世間通用の善人にはなられぬぞ」。斯くと聞いた盗賊は、始めて「我」というものに気がついた。悪事に染まった始終を語り、清九郎の前で懺悔したから、清九郎も非常に喜んで、その銀で身の行末の世話をしてやった。
鉾立の隣に矢橋という小村がありて、そこに久六という若者があった。悪いことなら何でもやる、博奕、大酒はいうまでもなく、喧嘩口論といえばいつも他より先に出る。ひとも対手にせぬほどの無頼漢で、その界隈のもてあましものである。
ある時、鉾立の若者から清九郎の娘小まんが成人して、養子を求めて居る噂をきいて、「よし己がその養子になってやろう、どうかその話をして呉れ」というから、とても清九郎の気には入るまいと思いながら、その事を清九郎に語ると、清九郎は非常に喜んで、「来てさえくだされば、どの様な人でも苦しうない」と、切に世話を頼むから、とても末遂ぐる縁ではないと思いながら、双方の望に任せて、久六を小まんの聟にした。その噂を聞いた人々は、清九郎を気の毒に思わぬものは無い。
清九郎の養子、小まんの聟となった久六。清九郎の家へ入って、僅に一月経たぬ間に、全く人格が変って終った。すべての悪事を廃めたばかりではなく、夫婦睦じう、親に孝道を尽して、何時の間にやら法義に入り行住坐臥、つねに念仏の絶間なく、御恩を喜ぶ身となった。
ある時、清九郎、田地を一枚、手次寺へ寄附したいからとて、その事を久六に相談すると、久六のいうよう、「何なりとも寄進をなさるがよい、子孫に果報がなければ、終には他人の手にわたる財宝、今仏恩師恩を報ゆるために、寺に寄附しておけば、それが却っていつまでも、我家の実でありましょう」。
享保四年三月二十六日、東本願寺大門建立の新始の式があった。その時から清九郎は、何とかして寄進をしたい望はあったが、何分にも貧しい身の上で、心に足るほどのことが出来ぬ。
或年、娘の小まんが、永々の丹誠で仕立ててくれた浅黄縞の木綿の布子を着て、悦んで京都へ参詣し翌朝の勤行が済んで御庭へ出ると、御門の寄進所に大門建立の寄附が取扱われている。
清九郎は直にそこへ立寄って、帯を解いて布子を脱ぎ、大門の寄進にとて差出すから、役人達は驚いて、「志はありがたいが、寒さも烈しい今日この頃、ことに老体の身の上で、若しや寒気に犯されては身のためにも宜しく無い、寄進は何も今日に限らぬ、またよい時節にさしあげられよ」と論される。
清九郎のいうには「幾度思い定めても、変りやすきは人心、たとひそれが変らぬにもせよ、明日の命はたのみがたい身の上なれば、なにとぞ御納めくだされよ」と、無理に布子を差置いて襦袢一枚で帰途に就いた。
丹生谷の同行二人、鉾立の同行二人、これも同じく京都に参って、昨日おそく京都をたち、道中の旅宿に泊って、今日歌姫(奈良の西北)の村茶屋に休んで居ると、襦袢一枚の爺さんが、震いながら念仏をとなえ、声をあげて泣きながら前を通るから、怪しんでよくみると、日頃親しい清九郎である。この寒空にその姿は何事ぞ、定めて盗賊に遇われたであろう」といえば、はじめて気がついた清九郎「実はかくかくの次第、今、寒風が身にしむにつけ、聖人の御苦労が思われて、尊さのあまり、うれし涙にかきくれて、つい失礼をしました」という。同行達も共に喜び、一人の着たる袷羽織を脱いで清九郎にうち着せ、ともにつれ立ちて丹生谷へ向った。
隣村まで来ると清九郎、鉾立の同行に向って、「折角娘が丹誠して、こしらえてくれた布子を、相談もせずに献上したから、さぞ娘も惜しう思うであろう、お前達は、丁度道筋のことだから、一足先へ往って、娘が腹を立てぬよう、執り成してくだされ」と頼むから、早速承知して先にゆき、小まんにその事を語ると、小まんの喜は一方でない、「私風情の手にかけたものが、大門建立の御用にたったとは何たる忝ないことぞ」と、父にも増した志。この寒空に衣服を脱いでもし寒気に犯されてはと、父の古布子を取出して、急ぎ足で迎えに出た。丹生谷の隣の市屋という村はずれで、父にあい、布子を着せようとしたが、風に当たって冷いから、自分の衣服を脱いで父に着せ、父の古布子を自分に着て、丹生谷の宿坊に参詣し、うちつれて我家へ帰って来た。
ある日清九郎、他から帰る途中で、諸国行脚の修行者に遇うた。みれば単衣も破れ勝ちて、ところどころ肌身が露れて居る。きけば永の道中を煩って、今は一文の貯えもないとのこと。
清九郎は不愍でたまらない。己を忘れてわが着たる布子を脱ぎ、之を修行者にうち着せて、「私は老人でも達者な身じゃ。病み上りのそなたがその様で、どうしてこの寒空に耐えられよう。遠慮なく着てゆかれよ」という。修行者は喫驚して、「かほどまでの広大な御情、あなたは仏でましますか」とて、涙を流して伏し拝んだ。
襦袢一枚で帰って来た清九郎、娘小まんにいうようには、「今来る途で斯くかくの次第。粗末の布子を遣ったらば、この清九郎を仏じゃとよ。僅かの寒さを救うてさえ、人は斯程に喜ぶものを、小まん、そなたも喜んでくれ、大悲深重の親様は、この清九郎が三悪道の苦患を御救いくださるばかりでなく、仏の証をひらかして下さるのじゃ」と、踊り上って喜んだ。
その姿を見た小まん、どうして喜ばずに居られよう、「これほどに御引立にあずかるのも、その旅人があった為、その病み上りの旅人こそ、まことに今日の知識でありました」。
清九郎の信徳が益々評判になって、時の御法主台下の御耳に入り、「今度上京したならば、対面をするほどに」との御意があったから、その次、参詣のとき、役人から清九郎へその思召を伝えた。
清九郎は大層喜んで、そのまま何の遠慮もなく、御召のままに奥御殿へ参上した。
すると、並び居る役人衆が咎めて、「御目見の作法は、烏帽子、素袍を着けねばならぬ、上を敬う礼儀だから、その用意をしてこられよ」との事に、無造作に参上した清九郎は驚いて、「はい、はい。何の弁えもない百姓の身で、つい御無礼を致しました。私はつねづね御本堂の御本尊を始め、御真影の御前へも、この肩衣のままで参りますから、宜いことと心得て、まことに粗相を致しました」と、幾度もお詫びをして下がりかけた。
かれこれして時が移るから、その旨を奥へ申上げると、「平素の服装で苦しうない」との仰せであったから、清九郎は、浅黄の古袷に肩衣をかけて、御前近う進み出た。ありがたい御語が下って、御盃を頂いた上に、御剃刀を御免し下され、浄元という法名を下された。
或人が清九郎に対って「今、途で磔刑の罪人を見て来たが、何でも恐ろしい奴じゃそうな。清九郎殿、あんな大悪人でも、如来様をたのむとたすけて下さるかい」と尋ねた。
清九郎、応えていうよう、「たすかるとも、たすかるとも、この清九郎でさえたすかるものを」と。
清九郎、五十歳の頃から六十五六の時分まで、自分を訪ねて来た同行の所へは、必ず礼に往って、五六里の遠路でも、その日帰りにしたものである。御所の町に、細井戸屋何某という人があって、清九郎を訪ねて、法義をきかれたから、その後、清九郎も亦細井戸屋を訪ねた。折しも夏の最中で、殊に午近いから、せめては日の傾くまで休まれよと、主人が強いて止めるから、一間で涼んで居るうちに、暑気の疲労でつい眠ってしまう。主人は勝手で素麺を冷やさせ、用意が出来たから持って出ると、清九郎は横になって、平常の様に念仏を唱えて居る。召上れというても返事がない。側へ寄ってみるに、よく寝入って居る。寝入っては居るが称名だけは少しもかわらぬ。
揺り起こして素麺をすすめながら、念仏のことを尋ねるに、少しも覚えがないとのことである。このすがたを見た主人、ひとしお驚きをたてて、家業を跡目に譲りあたえ、自分は姿をかえて禅門となり、釈の教西と名のって、程近い寺内村に隠居し、いよいよ清九郎の御引立を蒙った。
鉾立から半里ほど西、山道をゆくと大石という村がある。そこに道西というて、清九郎に親しい同行があった。ある年道西、報恩講を勤めるからとて、前以て清九郎に案内したが、生憎その日が大吹雪で、夜に入ってもまだ息まない。
清九郎殿も、これではとても来られまい、残り多いが勤行を始めようと、参詣の同行達、各々支度にとりかかると、そこへ蓑笠の人が来た。上も下も雪だらけ。笠を取れば清九郎である。道西も非常に驚いて、「目口も開けぬこの吹雪、ことに老体の御身が、よくもあの山坂が越えられしぞ、定めて難義であったろう」、とさまざまにもてなせば、集うた同行もいろいろに労る。
清九郎は礼を述べながら、「身を粉にし、骨をくだきても報ずべき御恩とは、かねがね承って居りまするが、それほどでも及ばぬこと。何程降りが強くても雪じゃもの。たとひ蓑笠を通せばとて布子があり、布子を通しても皮がある。よも肉までは通るまい。これで御恩報謝をさしていただくとは、何たる忝ないことぞ」と、喜ぶ姿を眺めては、集まった人々も慚じ入った。
清九郎の領地に、至って味の善い柿の木があった。清九郎は毎年之を本山に献上する。その柿の実を取る竿は、決して外のことに用いない、足にかけてはならぬというので、いつも屋根裏につるして置いた。
清九郎が亡くなった後で、人々その志に感じ、その竿を箱に納め、由来を記して、永く後世に伝えたということである。
娘、小まんは、ふと病の床に就いて、怠りなく療治をしたが、次第に重くなって、たより少い身になった。いよいよ臨終に近づいた時父と夫とに扶けられ、仏壇の本尊に拝礼して、夫の久六にいうようには、「何も思いのこすことはありませぬ。ただ次第に齢をとらるる父上、これからはさぞ御不自由でありましょう、どうぞ、私にかわって孝行してくだされ。穢れはてたるこの小まんも、いまこそ女人成仏の証果を開かして頂きます」と、仏前に跪いて、一心不乱に念仏しながら、二十六歳を一期としてついに空しき人となった。
女房に別れた昔時は、悲嘆に狂うた清九郎、娘に別れた今日は、かなしみの色のうちに、ひとしほ喜の念を増した。
小まんが亡くなってからは、一家男ばかりでもあり、久六もまた若盛りだから、後妻を迎えたらばと勧める人もあり、清九郎殿の嫁ならばとて富貴の人から申込むものも多かったが、久六は、すこしも後妻を娶る心なく、ただ偏に親を大事にかしづいた。
清九郎も段々齢をとったから、家事を久六に任せて、自分は丹生谷の山陰に隠居した。妙好人伝の著者、仰誓師、寛延二年の春三月、朋友の義詮師とつれだちて、わざわざこの清九郎の隠宅を訪ねられたことがあるが、その家、僅かに二間ばかり、莚二三枚を敷いて、茶碗二つ三つ、釜一つの外、何もなき侘住居、師もその余りなのに驚かれたとの事である。斯様な乞食小屋同様の所へ、土地の貴人や、諸方の大徳方が訪ねられるのだから、御所の町の小寺屋の禅門が気の毒に思うて、清九郎の家普請をしようと思いたち、近在の同行に話をした。
すると「清九郎殿の事ならば」というので、忽ち沢山の金が集まったから、早速清九郎の所へ赴いて、近いうちに普請に取りかかるからというと、清九郎は一方ならず驚いて「これは思いもよらぬこと、どうかその儀はやめて下さい」というてどうしても承知してくれぬから、禅門も大いに困って、折角、同行衆が寄附してくれた普請の志、若し、お前が承知せられぬと、私が私欲で為たように疑われても困るから」といえば、清九郎も迷惑して、「まことに御志はありがたいが、余命も少い身の上、ことに住家のわびしいのは、結構なれ浄土を慕うようにもなりまする。折角の御志だから、どうかそれで、宿坊因光寺の仏具を寄附して下されたら、ありがたう存じます」という。
そこで禅門もその志に感じて、清九郎の望通りにした。
今井の町の紅屋といえば、当時名代の商家である。そこに一人の少女があった。七八歳のころから仏法に親しんで、御恩を喜んで居たが、家柄でもあり、容儀も他に勝れて、女の道にも達して居るから十五六歳の頃には、頻りに縁を望む者があった。然るに、出離を求むる少女には、浮世の絆を望まない、あけくれ浄土を懐う余り、いっそ自害してなりとも急いで参りたいものと、心窃かに思うて居る所がある日、おなじ今井の順明寺の本堂で、平素知合の清九郎に会うた。
清九郎が諭していうようには、「余り御恩の尊さに、此世を厭うこころから、折に触れては、首しめてなりとも、淵川へ身を投げてなりとも、はやく往生したいと思うこころの出るものじゃが、必ず必ず早まってはなりませぬぞ。生きなば念仏となえなん、死なば浄土へ参りなんと、信心相続の上より、如来の照護を喜んで、さだまれる定命を待たれよ」と。これを聞いた少女は非常に喜んで、両親に願うて髪をおろし、釈の貞寿と名を改め、終生御恩を尊んで、ついに往生を遂げたとの事である。
越中茗荷原妙覚寺の住職、玉譚師が、寛延元年の春、国へ帰る時、心ひそかに思われるよう、「国元には真宗の御流を汲むものが多く、法談会合も数多いことではあるが、大概は浮いた聴聞で、まこと心の奥底から、愚痴に還って本願を仰ぐものは、千人に一人か、万人に一人、ただ徒らに口で御慈悲を説くよりも、いっそ清九郎のような信者に遇わせたなら却って驚きを起てることであろう」。こう思いたって、清九郎を誘うて、はるばる越中へ下られた。
七十に近い清九郎、百里の道を歩むうち、一度も草臥れたということをいわぬ。玉譚師がいたわって、「今日は定めて草臥れたであろう」というと「いや、くたびれませぬ」と応える。「だって、起臥も不自由そうで、跛をひかるるではないか」といえば、「はい、身体はくたびれても、心は聊かも疲れませぬ」「それは何故か」と尋ぬると、「はい、形は七十の老体じゃが、心はいつも十八で」。
おなじ越中へ下る道で、川を渡らねばならぬことがあった。まだ春浅い時だから、玉譚師が気の毒に思うて、「若い自分でさえ、この川水の冷たいのは厭である。まして老体の御身は、さぞ辛いことであろう」といわれた。
すると清九郎のいうよう、「決して大儀とは思いませぬ。若し、このように寒い時、河を十度わたらねば、助けてやらぬという御誓いならば浅ましい我身は、二つか三つ渡ったら、もう大儀になって、残る六つ七つは渡らずして、後世を仕損ずるであろうが、河一つも渡らずに、助けて下さる御恩を思えば、この川の五つや六つぐらい、物の数ではありませぬ」と。
越中の同行、清九郎が無我の喜びを見て、一方ならず引立てられた。帰国の時、玉譚師も同道して、飛騨国真宗寺に参詣する。恰度その時、摂津小曾根の浄光寺、泰巖師の説教があったが、満座になってから、泰巖師もまた同道して上方へのぼられた。長旅のことだから泰巖師が清九郎の老体を思いやって、馬を雇うてのせようとせられた。
清九郎は非常に驚いて、何というても辞退する。「なぜ乗らぬか」といえば、「御坊様のとりたまう馬には、勿体なくて乗れませぬ」という。何と勧めても、どうしても乗らない。
そこで泰巖師、清九郎にいわるるには、「これほどいうても勿体なくて乗れぬという。それほど勿体ないならば、御身、何故、大願の船に乗った」。
清九郎いわく、「如来様が、無理に乗せておしまいなすったから」。泰巖師いわく、「今も左様じゃ」と。
そこで清九郎は止むことを得ず馬に乗った。次の宿へ着いた時、粉糠五升ばかりを求めて馬士に与え「どうか馬に喰わして下さい」というて、幾度か馬の背を撫でて別れたそうである。
寛延二年の夏、仰誓師が京都で清九郎に遇われた時、「其許は去年越中へ下られたそうだが、往くさきざきで、定めて有難い信者に遇われたろう」と尋ねると、清九郎のいうようには、「有難かったのは私で」と。この一言まことに妙である。我等は、ただ他人のまめやかに信ずるを見てうれしがり、喜ぶばかりにて、我身の上には心附かざるのである。けれど清九郎は、隣の宝をかぞえず、何につけても自身の往生をよろこぶこと、まことにありがたきことである。
同年七月の始め頃、原谷村の祐安という同行の許で仏事があって、清九郎も参詣をしたが、その留守へ盗賊が来て、莚の下に入れてあった銀札七匁を盗んでいった。人々がその話をきいて気の毒に思いその旨を清九郎にいうた。
すると清九郎のいうようには、「盗みするほどのものならばよくよく不自由な身であろう。私のような家へ来て、何も取るものがなかったから、さぞ残念であったろうが、しかし、菜種を売った代金の銀札十五匁ほどのなかで、八匁は春以来の洗濯料にはらい、残る七匁を取っていったが、いつもならばこの七匁さえ無かったのに、ちょうどよい時で、折角来たのに手を空しくさせず、僅かでもとらるるもののあったのは、うれしう存じまする」と。これを聞いて、人々興をさまし、「盗まれて嬉しいとは何事ぞ」。
清九郎いわく、「私も同じ凡夫の身、盗みしかねぬものなれども、今は御慈悲より盗み心もおこらず、却って盗まるる身にして下されたことは、どうして喜ばずに居られましょう」。
或歳、霜月二十七日の夜、清九郎は自分の隠居家で、聟の久六と共にお通夜をした。破壁を漏りて来る寒風は刃のように身にこたえ、外面の一面の吹雪である。
清九郎、つらつら思うよう、御開山聖人は雪の中で石を枕に臥したまい、法蔵菩薩はたとひ身を諸の苦毒の中に止るとも、我行は精進して忍びて終に悔いじ、と仰せられ、これら千万の御苦労も、皆この清九郎一人のためであったものを。御恩知らずの身の上も、すこしは我身に引受けて喜ばして頂こうとひそかに布子を脱ぎすてて丸裸になり、表の方へたち出て、積もった雪の中に臥して、御開山聖人も斯様であらせられたかと、身ふるわせて称名して居た。久六がそれをききつけて怪しみながら出て見ると、親清九郎が雪の中にねころんで居て、然も丸の裸である。
驚いて布子を打着せて室に入れ、仔細を尋ぬると、かくかくとの物語、久六も今更の様に、親の厚信に恥入りて、その夜は共々に喜ばれたとの事ある。
清九郎、寛延二年の冬、ふと中風に罹って、歩行も出来ず、起臥も自由にならずして、次第に疲れの色が増して来る。翌、三年の夏、髪をおろして、病体ながら入道の姿になったことを喜んで、ますます称名を励んで居た。人々が見舞に来て、浄元殿、浄元殿と法名を呼ぶと、清九郎は頭をふって「いや、私はただ入道で」という。法然上人が「尼入道の無智の輩」と仰せられ、蓮如上人が「一文不知の尼入道」とのたまう御言などを思うての事であろう。
愈々病気が募って、もう長くはあるまいという時、見舞に来て居る同行達が、「清九郎殿ほどの御信者だから、臨終には定めて不思議なことがあるであろうとて、専ら世間で噂して居る」と話しあうて居るのを、清九郎きいて言うようには、「皆様御存知の通り、罪悪生死の清九郎が、この度は如来の御はからいで、浄土の往生を遂げさせていただきます。これに過ぎたる不思議はありますまい」。
斯くて清九郎は、口に余言をあらわさず、専ら称名絶ゆることなかったが、呼吸も短く、苦しげに見ゆるから、傍らに居る久六が、「息ざしも苦しそうだから心に喜ばれよ」というと合点したようで、しばらくは念仏の声を休めて居たが、いつとなくまた称名して絶間がない。寛延三年庚午、八月四日午刻、遂に往生の素懐を遂げられた行年七十四歳である。





