妙好人伝全集みょうこうにんでんぜんしゅう 古昔こせきまき 第一編だいいっぺん

大正4に出版された妙好人伝全集 古昔の巻 第1編から始まる。
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妙好人伝全集を読む|古昔の巻 第一編・『はしりがき』から『目次』【現代表記・総ルビ】

 

山城国やましろのくに

いち 七郎右衛門しちろうえもん

享保年中きょうほうねんちゅう京都きょうと六条油小路ろくじょうあぶらのこうじ高槻屋七郎右衛門たかつきやしちろうえもんという信者しんじゃがあった。入道にゅうどうして法名ほうみょう自休じきゅうんだ。

或年あるとし九月二十八日くがつにじゅうはちにち大谷おおたに報恩講ほうおんこうまい御法事ごほうじわりて、大谷おおたに茶所ちゃどころ休息きゅうそくして頓死とんしてた。

ところ醍醐だいごさとおとうとがあったが、その七ツ時ななつどき自休じきゅうおとうとたくたずねてた。おとうとむかえて「おもいよらざる御出おいである。いざこなたへ御上おあくだされ」と案内あんないしたところ自休じきゅうにわちながら、開山かいさん御召おめしによりてまいるなりあとをしたひてほうあじわえとえいじてそのままかえってったからあとよりいかけたるに其形そのかたち見失みうしなうてしまった。人々ひとびとあやしみきょう使つかいをつかわし、安否あんぴたずねたるにきょうよりは自休じきゅう頓死とんしのよしをげてた。そして両使りょうし途中とちゅうにてゆきったという。不思議ふしぎことであった。

 さとおんな

山城国やましろのくに宇治郡うじぐん山科やましな音羽村おとわむら木屋清右衛門きやせいえもんというひとがあった。そのむすめさとは生質柔和しょうしつにゅうわにして幼少ようしょうときから父清右衛門ちちせいえもんしたがうて、法座ほうざ参詣さんけいし、ふかく仏法ぶっぽうことわりあきらめ、つね遊戯ゆうぎにも仏前荘厳ぶつぜんしょうごん真似まねをし、友達ともだちをあつめて参詣さんけいさせ、平生へいぜい聞覚ききおぼえたる地獄じごく苦相くそう、また極楽ごくらく体相たいそうなどを物語ものがたり、念仏ねんぶつをすすめてた。

父母ふぼとも仰信ぎょうしんものであったからふかこれよろこび、法座ほうざとさえいえば風雨ふううなかをもいとわず、このをいざなって参詣さんけいしたから、いよいよ信心堅固しんじんけんごにして、父母ふぼこれがために引立ひきたてられ、益々ますますよろこびのいろをすようになったこの十七歳じゅうしちさいはる京都きょうと新車屋町しんくるまやちょう伊勢屋定七いせやさだしちという八百屋商売やおやしょうばいいえ入嫁にゅうかして、のち念仏勤行ねんぶつごんぎょうおこたらず、よく舅姑しゅうとしゅうとめつかえ、いささかもあらそことなくまた町内ちょうないでもまずしきものが野菜やさい調ととのえにとき利分りぶんうすくしておおくこれにあたえた。このこと近隣きんりん評判ひょうばんし、あきな日頃ひごろ十倍じゅうばいするにいたった。だからしゅうとめもこれをよろこび、まことののごとくあいていつくしんだので、いよいよ家内睦敷かないむつまじく日々ひびあきな繁昌はんじょうし、いえ益々ますますさかえるようになった。

ところ嘉永二酉年正月かえいにとりどししょうがつかぜ心地ここちとて打臥うちふしたるに数日すうじつあたまをもたけず、医療いりょうつくせどもそのしるしなく、親里おやざとかえりて養生ようじょうしたいというから早速さっそく駕籠かごやとい、音羽村おとわむらおくりたるに、次第しだいからだつかれて其年そのとし閏四月十六日うるうしがつじゅうろくにちあさ俄然がぜんとして念仏ねんぶついきてた。すべて病中苦痛びょうちゅうくつういとわず、昼夜ちゅうや称名念仏しょうみょうねんぶつおこたことなかった。命終みょうじゅうのちむねのあたりすこしあたたまりがあったのでまず仏前ぶつぜん親族しんぞくにもげ、それぞれの用意ようい調ととのえた。

すると二時ふたときばかりして、うというてきあがったから、父母ふぼをはじめ、打寄うちよりたる親族しんぞく打驚うちおどろき、屏風びょうぶけてみれば、こは如何いかいままでとは事変ことかわ顔色かおいろ平生へいぜいのごとく、さらに苦痛くつうさまえず、満面まんめんえみふくみ、言説ごんせつさわやかにしてかたるよう、わらわ、いま命終みょうじゅうしたとおもうてをひらきみれば、金銀きんぎんをちりばめたるたか数十丈すうじゅうじょう楼門ろうもんのごときもののまえきました。

しばらくして楼門ろうもん両方りょうほうひらくようにえましたが瑠璃るり大地だいちには百宝ひゃっぽう楼台ろうだいがあり、七宝しっぽう樹木じゅもくあいだには鸚鵡おうむ舎利しゃり迦陵頻伽かりょうびんがのもろもろのとりありて、微妙みみょう法音ほうおんをさえずり、無量むりょう菩薩ぼさつそのなか遊戯ゆうげし、また八功徳はっくどくいけには五色ごしき蓮華れんげみだれ、無辺むへん聖衆しょうじゅそのうえにあそびたのしみ、正面しょうめんには金色こんじきやまのごとくなる仏身ぶっしん百宝ひゃっぽう華台けだい端座たんざして説法せっぽうましまし、無量無辺むりょうむへん菩薩聖衆ぼさつしょうじゅ百重千重ひゃくじゅうせんじゅう囲饒いにょうして聴聞ちょうもんたまうありさま、娑婆しゃばにありてきたるには百千万倍ひゃくせんまんばいこえすぐれたる体相たいそうをまのあたりにおがたてまつり、ありがたさいわんかたなく、ただひれふしてましたところ一人ひとり菩薩ぼさつ我前わがまえきたたまなんじようれた。善哉善哉ぜんざいぜんざいとのたま御声おこえ殊勝しゅしょうさ、有難ありがたなににたとえんようもありませぬ。

しばらくしてのたまうにはなんじ父母ふぼ信心堅固しんじんけんごのものである。命終みょうじゅうせばかならずこのところしょうずるであろうがなんじあね不信ふしんのものだから臨終りんじゅうのち地獄じごく堕在だざいすることだろう。しかてがたき宿縁しゅくえんあれば、はやく仏道ぶつどう一念いちねん信心しんじんをおこさば、かなら一蓮託生いちれんたくしょうすることが出来できようからこのこと告知こくちせてよ。なんじ往生おうじょう今日きょうであるからはやれとおおせらるるかとおもえば、ゆめめたるがごとくである。あらきたなや、かかる不浄ふじょう娑婆しゃばには片時かたときまることは出来できぬとて、おおうた。

そこで父母ふぼをはじめ、あり人々ひとびと、このことをきき、つはよろこび、かつはおどろき、異口同音いくどうおん称名念仏しょうみょうねんぶつした。かく物語ものがたりのち二時ふたときばかり下刻げこくおぼしきころにわかひらき、あれられよ。聖衆しょうじゅむかえに御出おいくださる。今生こんじょう対面たいめんもこれまでである。極楽浄土ごくらくじょうど半座はんざけてもうしましょう。父母ふぼをはじめみなみなはやくだされと高声こうしょう念仏三遍ねんぶつさんべんとなえていきてた。

かくて父母親族ふぼしんぞくもなげきのなかにも、かかる奇瑞きずいをまのあたり見聞けんもんし、目出度めでた往生おうじょうげたことよろこ同村どうそん光照寺こうしょうじ葬送そうそうし、法名ほうみょう釈尼妙華しゃくにみょうけづけた。

さん きくおんな

山城国やましろのくに上狛村かみこまむら七兵衛しちべえつまきくといえるは、ことほか仰信ぎょうしんひとで、つね称名念仏しょうみょうねんぶつおこたりなく、御法座ごほうざとあれば、なぐさみすすみて参詣さんけいをいたし、また世間せけんまじわりも柔和にゅうわひとにもあいせられたので、其夫そのおっと七兵衛しちべえ随喜ずいきして、弥陀みだ本願ほんがんしんじたてまつり、国法こくほうおきてをも如実にょじつまもったから御領法ごりょうほうから褒美ほうび頂戴ちょうだいしたこともあった。もっとつまのきくは一方ひとかたならぬ信者しんじゃで、あつ御恩ごおんよろこんだが、安政五年十二月あんせいごねんじゅうにがつはじめから病気びょうきとなりて、十六日じゅうろくにち六十三歳ろくじゅうさんさいもっ往生おうじょうした。

ところ二日目ふつかめ蘇生そせいして家内かないものはじめ、あつまりたる人々ひとびとむかいていえるようは、わたし仕合者しあわせもの命終みょうじゅうるなり、極楽ごくらく往生おうじょうげましたからさて其御浄土そのおじょうどは、黄金おうごん大地だいち種々しゅじゅ妙花みょうけくだりて、其美そのうつくしきことうべき言葉ことばもありませぬ虚空こくうにはつねならぬ美々敷烏びびしきとり微妙みみょうこえをしてさえずる、おともきけば、なんとなうこころひらけて有難ありがたことかぎりがない。むこうほうをながめると黄金おうごんやま飾立かざりたてたようにたまうはすなわ浄土じょうど御主おんあるじ阿弥陀如来あみだにょらい光明こうみょうはなちて十方世界じっぽうせかいらしてらるる。またみぎひだりならたまうは観音勢至かんのんせいし二菩薩にぼさつである此三尊このさんぞんおがたてまつ有難ありがたさ、なんたとえんかたもありませぬ。さてまたたからづくしの宮殿楼閣くうでんろうかくかずもかぎりもなくちならびてしかも七宝しっぽう欄干らんかんのかざりがある。

たから花咲はなさちて、そのかんばしきこというばかりもない。風鈴ふうりんありてかぜそよげば微妙百千種みみょうひゃくせんしゅ音楽おんがくがきこえて、その面白おもしろとうとさ、たとえんにものもない。八功徳はっくどくいけには、五色ごしき蓮華れんげあざやかにひらきて、はなごとに五色ごしきひかりがある。いけそこ七宝荘厳しっぽうしょうごんになってる。菩薩聖衆ぼさつしょうじゅ光明赫奕こうみょうかくえきとしてはすたまえば蓮華れんげ自然じねん池中ちちゅうをめぐり、すくわんとしたまえば、みずおのずからおもところあがりて、ただなにごともこころおもうままである。かぜそよきて宝池ほうちなみきあぐれば、みずよりは自然しぜん音楽おんがくがあらわれて、面白おもしろさ、有難ありがたさ、もうすもなかなかおろかである。

さて宮殿楼閣くうでんろうかくなかからばさき往生おうじょうたまうた菩薩達ぼさつたちうつくしきころもはなをかざりたるよそおいで、さもうれしげに大勢おおぜい打連うちつれて、如来にょらい囲遶いにょうなされ御説法ごせっぽう聴聞ちょうもんしてよろこたまうもあり、あるい菩薩ぼさつたち楽器がっきをとり、音楽おんがくかなしてたのしみたまえば、百味ひゃくみ飲食おんじき自然じねんにそなわりて快楽けらくたまうものもある。あるいうつくしき天人てんにん宮殿くうでん虚空こくうをめぐるもあり、また菩薩聖衆ぼさつしょうじゅたち色々いろいろ供養くようしてまわたまうもあり、その結構けっこうもうつくがたい。こと有難ありがたいのは我身わがみをながむれば、いままでやまいとこにありて、あかによごれ、汚穢不浄おえふじょう姿すがた歩行ほこうかなわぬ不自由ふじゆうながら、息引取いきひきとるなり、せみのもぬけをるごとく、彼浄土かのじょうど往生おうじょうせば、十方世界じっぽうせかいことかがみにうつすがごとくあきらかである。

しかるに此娑婆このしゃば見渡みわたしたるに毎日毎日まいにちまいにちぬるひと幾千万人いくせんまんにん数知かずしれぬに浄土じょうどまいひといたってまれであるからいずれも今日きょうから後生ごしょう一大事いちだいじこころをかけて、本願ほんがん御謂おいわれをあきらかに聴聞ちょうもんして、追附おっつまいらせてくださるるものをとよろこくらしてくだされ、ねんごろげたので、皆々みなみな随喜ずいきしんしょうじ、なみだにむせんでよろこんだ。それよりきくおんな苦痛くつうもなく、三日目みっかめねむりがごとくで、目出度めでた往生おうじょうたした。

 おくり

京都きょうと六角通ろっかくどおりに藤屋又兵衛ふじやまたべえというひとがあった。其女そのむすめをおくりづけて幼稚ようちときからかしこく、つねちち正信偈和讃しょうしんげわさんなどとなうるをききおぼえてよくこれをじゅした。

かくてちち慈愛じあいあさからなかったが、享保三年戌きょうほうさんねんいぬ十一月四日じゅういちがつよっかころから痘瘡とうそうおもくして医術いじゅつおよびがたくなったのでこのむすめはじめのほどはぬべきことをかなしんだが、のちにはたすかるまじとるよりちちかたっていうよう、わたし今日きょうまで後生ごしょう一大事いちだいじをうかうかと聴聞ちょうもんいたしてましたのにいま此場このばにいたりてはほかにたのみもありませぬ。ただほとけ御慈悲おじひしんじて浄土じょうどまいりたくおもいまするので、その御義おんぎをねんごろにおしえてくだされというので、父母ふぼもそのこころざし有難ありがたきをかんじてなみだながらすすめるようは、このほとけをたのみたてまつるというはなにのむつかしきこともない。

ただ六字ろくじ御義おんぎをよくきけば衆生しゅじょうつとめるがんぎょう如来にょらいかたつとめくだされて、それ衆生しゅじょうにあたえてたすくるとある御意おこころをまうけにするばかりではやくも摂取せっしゅ光明こうみょうにおさめるとあるからはうたがいなくしんじまいらせてただそのうえたすけくださるること有難ありがたやと御恩ごおん称名しょうみょうよろこぶばかりであるとねんごろにおしえたところむすめ立所たちどころ信心歓喜しんじんかんぎおもいふかくなりてうようは、痘瘡とうそうくちなかて、念仏ねんぶつとなえることもなりがたい。

ただたすけたまことうれしやありがたやとこころよろこびてはいかがであるかといえば父母ふぼうよう、なるほどこころねんじてよろこべば念声是一ねんしょうぜいつとも聴聞ちょうもんもうしたこともあればおなことであろうぞといえば、むすめうれしき気色けしきにて息苦いきぐるしきなかからも南無阿弥陀仏なむあみだぶつ南無阿弥陀仏なむあみだぶつこえきこえたが同九日どうここのかよるからことくるしみつよくなり、如来様にょらいさま尊像そんぞうおがみたいというので、仏壇ぶつだんひらけば、こうべをたれて尊敬そんけいかおをあらわし、恭敬くぎょうおもいことにあさからなかったが、其夜そのよいささかねむるがごとくして、たちまちにをさまし、父母ふぼおよかたわらなる同行どうぎょう人々ひとびとたいしていうよう、只今ただいまありがたきことがあった。

阿弥陀如来あみだにょらいきたらせたまうてわれにこのうつくしきたまくだされた、これたまえとてをひらきすればもとより凡眼ぼんげんるべきものではなかったがかたわらなる人々ひとびとのいえるよう、それこそなんじ信心しんじんふかきによりて仏様ほとけさまからたまわった信心しんじん宝珠ほうじゅうものであろう。

いよいよたのもしくおもいてよろこべよというに、またかのむすめうよう、只今ただいままたかくのごとほとけ光明こうみょう眼前がんぜんにかがやきたまうを皆人みなひとおがまれなかったが、さてもありがたきことであったと感心かんしんふかきあまり、南無阿弥陀仏なむあみだぶつとなえて、こころやすく名号みょうごうとなえらるるようになったから、いよいよ不思議ふしぎなることであるとみずからもよろこび、ほか人々ひとびとかんじてたがそれより称名しょうみょうこえたえずして同十二日どうじゅうににち暁卯あかつきうときばかりに、やまいきゅうになりて命終みょうじゅうせんとするとき、いままではよこしてたものがたちまちにきあがり、其身そのみかろげに本尊ほんぞんかたむかいて、合掌がっしょう跪坐きざして、晏然あんぜんとして称名しょうみょうもろともねむるがごとくに命終みょうじゅうった。ときとしようや九ツここのつであった。

 西六条非人にしろくじょうひにん

文政ぶんせいころ京都きょうと西六条新町にしろくじょうしんまち四十しじゅうばかりの乞食こじきおとこがあった、ひる日終ひねもすこのところ徘徊はいかいし、しょくい、よるはまたここの軒端のきばかしこのうまやし、あかつきにいたり、御堂みどうもんひらくをちて階下かいかひざまずき、勤行ごんぎょうのはつるまで合掌念仏がっしょうねんぶつし、それから市中しちゅうにいててしょくうことつねのごとくであった。ひとしょくあたぜにあたひとあれば、因縁いんねんなりとてよろこび、あたえぬも因縁いんねんなりとてうらむるいろなく、また小児しょうに大勢おおぜいあつまりて、あるいつぶてち、かつぎたるこもをやぶりなどすることがあっても、因縁いんねんなりとてさらにいかあらそうこともなかった。だからひとんで因縁乞食いんねんこじきというてた。

あるとしの正月しょうがつれいとお軒下のきしたたるに、このまち近江屋何某おうみやなにがしというもの、いたくさけい、夜更よふけてかえりたるに小便しょうべんがしたくなりこの乞食こじきたるをゆめにもらず、あたまから尿いばりをかけたるに、乞食こじきをさまし、因縁いんねんなりとつぶやき、かたえににじりったから、何某なにがし驚天きょうてんなんじたるをさらにらず、不浄ふじょうをかけたること堪忍かんにんしてれよとびた。

すると乞食こじきおおいに迷惑めいわくていで、これまった我臥所わがふしどわるかったからで、貴方あなたおどろかしたのであります。これ因縁いんねんなれば、かならずびてはくださるなとすこしもうらむる気色けしきがなかったからこのひとおおいにかんなんじもしわが存生ぞんしょうのうちにすることあらば、よきにほうむさせるであろうとかたやくしてかえった。かくして二月ふたつきばかりぎて、或日あるひ町内ちょうない非人ひにんんだといいさわぐに、もしやとてきてみれば、まがうところもなく、因縁乞食いんねんこじきであった。

そこで先日せんじつやくおもい、まちおさうて、死骸しがい我家わがいえ引取ひきとひとやとうて沐浴もくよくさせ、ひつぎおさめて、七条しちじょう道場どうじょう火葬かそうした。そのあくあさ家内かない取込とりこみのことありて、収骨しゅうこつわすたるに、道場どうじょうものはしきたりて、収骨しゅうこつまいられよとうながしたから今日きょう家内かない取込とりこみのことありて、わすれてた。よきにはからうてれよとたのめば、そは容易よういことではあるが、まこと不思議ふしぎ往生人おうじょうにんであった。

自分じぶん数千人すうせんにん火葬かそうしたが、いまこん希代きたいことないというてしきりにたんずるので、かねて床敷ゆかしくおもうており、このはなしをきき、何事なにごともすてきていそ道場どうじょうへゆきてみれば、けたるはいむらさきいろへん白骨はっこつことごと舎利しゃりとなり、瑩徹えいてつすること水晶すいしょうのごとくであったので、おおいにおどろ感嘆かんたんし、早速さっそく親族知音しんぞくちいんひとらせ、この舎利しゃりけとり、結縁けちえんのためにとて内仏ないぶつ安置あんちするひとおおかった。往生おうじょう三月十五日さんがつじゅうごにちであったとのことである。

大和国やまとのくに

いち 清九郎せいくろう

霊元帝れいげんてい御宇ぎょう延宝六年えんぽうろくねん大和国やまとのくに吉野よしの西北せいほく約二里やくにり矢田やた在所ざいしょ初声うぶごえげた。

そののち双親そうしん清九郎せいくろうをつれて、矢田やたから六町ろくちょうばかり西にし丹生谷にゅうだに引越ひっこした。いまでも矢田やた村端むらはずれには、清九郎屋敷せいくろうやしきという畑地はたちのこってる。双親そうしんのことはくわしくはれないが、なんでも余程よほどまずしい生活せいかつで、いわば水呑百姓みずのみびゃくしょうであったから、清九郎せいくろうそだてるにも随分ずいぶん苦労くろうをしたらしい。とても自家じかではしこめぬからとて、さる大家たいけ百姓ひゃくしょう奉公ほうこうをさせたが、そのうちに父親ちちおやくなったから、つまめとっておやあとぐことになった。もとより財産ざいさんなどのあるべき身分みぶんいから、馬追うまおいをしてようやくそのおくってた。

馬士まごといえば何所どこでも粗暴そぼうなものであるが、なかにも清九郎せいくろうは、小男こおとこでありながらごうのもので、うまうにもむちをつかわずに拳固げんこなぐ相撲すもうもとる、大酒おおざけむ、そればかりでなく、喧嘩口論けんかこうろんといえば何時いつさきだちてゆく。こういう風情ふぜいであったから、だんだんほかからうとまれて、ついには対者あいてにするものさえくなった。あるとしのこと、霖雨りんうつづいて仕事しごとすくないから、まずしい生活せいかつがだんだんまずしくなってくる。仕方しかたがない、ありあう小道具こどうぐ売払うりはらってはやっとそのおくってた。もとより茅屋ぼうおくのことだから、しきりに雨漏あまもりがしてもそれをふさぐものがい。

そこで隣家りんか荒菰あらごもがついた。ひときわまると存外ぞんがい無分別むふんべつになるものである。

清九郎せいくろうは、けっしていこととはおもわぬが、くるしいあまりに、つい一枚いちまいとり、二枚にまいぬすみ、五枚ごまいまで窃取ぬすみとって、我家わがいえ雨漏あまもりをふさごうとした。それとさとった隣家りんか主人しゅじんは、清九郎せいくろういえ飛込とびこんで、散々さんざん清九郎せいくろうののしったうえ、その荒菰あらごも取返とりかえした。さすが粗暴そぼう清九郎せいくろうもこのときばかりはあたまがらなかった。こういうことがあったために、むらむのがなんとなくはずかしうなったのでこの丹生谷にゅうだにから十八町じゅうはっちょうばかりのとうげえて吉野郡よしのぐんくだると、鉾立ほこたてというむら知己ちき馬士まごがあるのを便たよって、そこへ引越ひっこした。に「鉾立ほこたて清九郎せいくろう」というはこれからである。

清九郎せいくろう鉾立ほこたてうつってからは、博奕ばくち大酒おおざけ女房にょうぼういさめでふっつりとめ、まじめに家業かぎょうはげんで二年程にねんほど無事ぶじくらしてたが、清九郎せいくろう三十三歳さんじゅうさんさいとき女房にょうぼう仮初かりそめやまい原因げんいんとなって、つい果敢はかなくなったぬるいまわのきわに、おっと清九郎せいくろうと、一人ひとりむすめ枕頭ちんとうまねき、なみだはらっていうようには、「此度このたび病気びょうきはとてもなお見込みこみがないから、わらわはおさきまいりまするが、それにつけても、かならかならず、博奕ばくち大酒おおざけとはおもとどまってたまわりたし。またむすめおさなうえだから、随分ずいぶん不便ふびんくわえて養育よういくしてくだされ。むすめわらわくなったのちは、ひとしほ父上ちちうえ大事だいじにせよ」

と、ねんごろ言残いいのこしてかえらぬ旅路たびじおもむいたのである。女房にょうぼう死別しにわかれた清九郎せいくろう悲歎ひたんのあまりに前後ぜんご取乱とりみだして、あたか狂気きょうきのようであったから、なかには後指うしろゆびさしてあざけわらうものもあり、なかにはさまざまになぐさめてくれるものもあったが、すこしもきわける様子ようすなく、かえらぬ愚痴ぐち繰返くりかえしては、なみだのうちにむなしく月日つきひおくってた。

ところ或日あるひ一人ひとり知人ちじん清九郎せいくろうにいうようには、「そなたのなげきはことわりだが、しかなんほどなげいても、とてもかえらぬことだから、とにかくこころをとりなおして仏法ぶっぽうでもかれたなら、ひとつはそなたののため、ひとつは女房にょうぼう菩提ぼだいにもなるであろう。さいわいこの下市しもいちで、さくら法会ほうえがつとまって、有難ありがた説教せっきょうがあるとのこと、わたしくからそなたもつれだちてなさい」と、いてすすめるものだから、仕方しかたなく清九郎せいくろう参詣さんけいすることにした。はじめていた仏法ぶっぽう御謂おいわれ、この常住じょうじゅうところでない、一息ひといきつがざれば千歳ちとせながうゆく。無常むじょうあらしさそ次第しだいおそろしい暗路あんろ流転るてんせねばならぬ。そういうものを御目当おめあて御成就ごじょうじゅくだされたが如来にょらい本願ほんがん、「たのめ、たすくる」

喚声よびごえうたがいなくしんぜられたものならば、ちどころに心光常護しんこうじょうごやくこうむり、命終みょうじゅうれば無上涅槃むじょうねはんしょうひらかしてくださる宿因深厚しゅくいんじんこうゆえであろう。ねんごろなる御化導ごけどう耳傾みみかたむけた清九郎せいくろう今更いまさらのようにおどろいた。仏法ぶっぽうといえば他人たにんこととのみおもうてたに、けばまった自分じぶんのことであった。ばれてるのは自分じぶんである、たすけらるるのは自分じぶんである。流転るてんといい、涅槃ねはんといい、本願ほんがん御成就ごじょうじゅといい浄土じょうど御建立ごこんりゅうといい、みなこの清九郎せいくろうのことであったとられたがどうしておどろかずにられよう。

清九郎せいくろう心機しんきまった一転いってんした。くて清九郎せいくろう光明こうみょう生活せいかつはいったのである。老後ろうご清九郎せいくろう土地とち領主りょうしゅ母君ははぎみ召出めしだされて、「そのほうはいつごろから御信心ごしんじんいただいたか」とたずねられたとき、「ねがうべきは浄土じょうどなりとおもいそめたは、三十二三さんじゅうにさんころかともおぼえますが、そのころは出離しゅつりみちについて、かくうたがいがありましたに、いつしかそのうたがれていまちかづく浄土じょうどをたのしみに、御報謝ごほうしゃ称名しょうみょうよろこばしていただくのは、まった他力たりき御催おもよおしぞと有難ありがたくそんじてりまする」とこたえたのでも女房にょうぼう死別しべつ大因縁だいいんねんであったことがらるるのである。一度いちど御法ごほう聴聞ちょうもんして、如来にょらい御慈悲おじひ打明うちあかされた清九郎せいくろう、このからなるまれかわったひととなった。

相替あいかわらず馬追うまおい渡世とせいをして、御法義ごほうぎよろこんでたが、そのうちうまんだから、ねんごろにそれをとむらうて、またもとの農業のうぎょうをいとなみ、三年さんねんほど鉾立ほこたてくらしてたが、丹生谷にゅうだに同行どうぎょう懇望こんもうで、ふたた生地しょうち丹生谷にゅうだにかえることになった。丹生谷にゅうだにかえってからは、農業のうぎょうひまに、やましば刈取かりとって、それをっては生活せいかつをした。買人かいにんが「いくらか」とたずねると、「いくら」とこたえる。「それはたかいから、いくらにまけよ」といえば、いちもなくとおりにする。だから、ついには、清九郎せいくろうしばは、一人ひとりとして直限ねぎるものがなくなったばかりでなく、なかには増銭ましぜにをやるというものが出来できてきた。が清九郎せいくろうけっしてそれを受取うけとらない。「それではてら賽銭さいせんに」といえば、それをけて押戴おしいただき、のこらず仏前ぶつぜんささげてしまう。

またほか柴売しばうりったのが、自分じぶんのよりやすかったはなしときには、以前いぜんったいえってこのまえ柴代しばだい五文ごもんおおかったから、六文ろくもんおおかったからというて、何所どこへも一々いちいちもどしてまわった。

清九郎せいくろう毎年まいとし五六度ごろくどかなら京都きょうと本山ほんざん参詣さんけいしたが、そのたびごとにいつもたきぎ献上けんじょうする。そのたきぎは、幾度いくどとなくみずあらい、かわかしてはまたあらって、不浄ふじょう場所ばしょにはかぬよう、ひとかたならずをつけたものである。本山ほんざんでも、そのまことにかんじて、清九郎せいくろう献上けんじょうしたたきぎべつにして、御仏飯おぶっぱんりょうにせられたということである。

清九郎せいくろうには一人ひとり年寄としよったははがあった。

清九郎せいくろう京参きょうまいりをすすめてもとしったからとてかれい。

そこで清九郎せいくろうのいうようには、「それではわたしおぶってまいりましょう、それとも駕舁かごかき一人ひとりやとって、わたし一人ひとり合棒あいぼうでやれば、御前おまえらくではあるけれども、清九郎風情せいくろうふぜいのもののおやが、駕籠かご京参きょうまいりをしたというては、きこえもわるいから、窮窟きゅうくつではあろうが、どうかわたしおぶれてください」というて、はは背負せおいて二十里にじゅうり道程みちのりのぼり、本山ほんざん参詣さんけいして、下向げこうにもまた背負せおうてかえったとのことである。

あるとき清九郎せいくろうおやまくら天井てんじょうっていたから、ひと不審ふしんおもうて、なぜそんなことをするとたずねると、「おやあたまもちいたものを、くらがりであしにでもかけると勿体もったいないから、こうしておいて、るたびごとおやおん思出おもいださせていただきます」とこたえた。その孝心こうしんふかいこと、さまざまのうわさつたわって、その土地とち高取たかとり領主りょうしゅ出羽守殿でわのかみどのみみ這入はいった。模範もはんともなるからとて、褒美ほうび米五俵こめごひょうくだされた。

清九郎せいくろうおどろいていうようには、「おやにつかえるのは当然とうぜんで、なにめずらしいことではありませぬ、それに御褒美ごほうびいただくなどとは勿体もったいない。わたし柴売しばうり渡世とせいをして、その不足ふそくもありませぬから」とて、辞退じたいしておけをしないから、領主りょうしゅ益々ますますそのこころざしかんじて、ふたた清九郎せいくろう膝近ひざちか呼寄よびよせ、鳥目十貫文ちょうもくじっかんもんたまわって、「領分りょうぶんやまなれば何所どこでもくるしうない。なんじがこころまかせにしばれ」との御許おゆるしがた。

清九郎せいくろうよろこんでいえかえ領主りょうしゅからの賜物たまもの、みだりに使つかうは勿体もったいないからとて、一文いちもんのこらず本山ほんざん献上けんじょうしてしまった。鉾立ほこたて庄屋しょうや角兵衛かくべえ、あるとき今井町いまいちょう代官所だいかんしょのぼったついでに、おなじまち小間物店こまものみせ立寄たちよった。はなしのついでに清九郎せいくろううわさる。

するとみせ亭主ていしゅが、「清九郎せいくろうといえば、わたしはあのひと親父おやじに、小間物こまもの売代うりだい六匁程ろくもんめほどしてあったが、むこうはくにくなったから、つまりは此方こちらそんです」という。角兵衛かくべえかえってのち、そのことを清九郎せいくろうかたると、清九郎せいくろう非常ひじょうよろこんで、早速さっそく銀六匁余ぎんろくもんめあまり調ととのえ、いそいで今井いまいみせおもむき、わけをいうてそのぎんす。亭主ていしゅおおいにおどろいて、「なにましてもらうつもりでいうたのではない、御前おまえうわさたにつけて、つい思出おもいだしたままいうたまでのこと。これはどうしても受取うけとれぬ」という。

清九郎せいくろういうよう、「おや借財しゃくざい借財しゃくざいそれをますのは当然とうぜんでありまする」、どうしても聞入ききいれる様子ようすがない。

そこで亭主ていしゅもそのこころざしかんじて、半金はんきん我方わがほうもらけ、半金はんきん無理むり清九郎せいくろう押戻おしもどした。仕方しかたがない、清九郎せいくろう受取うけとって押戴おしいただき、帰途きと宿坊しゅくぼう因光寺いんこうじ立寄たちよって、そのぎん布施ふせとして、おや逮夜たいや仏事ぶつじいとなんだ。

その清九郎せいくろう御所ごせまち商人しょうにんに、綿わたったことがある。しばらくてから、清九郎せいくろう、その商人しょうにんみせ立寄たちよると、商人しょうにんのいうには「清九郎殿せいくろうどの、おまえおりられたよ、いまでは一度いちど相場そうばがって、どうしても十八匁じゅうはちもんめそんでしょう」。これをいた清九郎せいくろうこころなかどくおもい、うちへかえりてぎん調ととのえ、そのあし御所ごせおもむいて、それを先方せんぽうわたそうという。商人しょうにんきもつぶして、「清九郎殿せいくろうどのなにをなさる。そんするももうかるもあきないならい。たとひわたし十八匁じゅうはちもんめもうけたからとて、一文いちもんもそなたにかえはずもなく、そんしたからとてもらはずもない」とつきもどせば、清九郎せいくろう、「商人しょうにんもうからのうてはちゆきませぬ。それをわたしそんをさせては」とて聞入ききいれぬ。

商人しょうにんこまってところへ、隣家りんか同業者どうぎょうしゃ立入たちいって、さまざまに執成とりなした結句けっく、これを折半せっぱんすることになる。その半金はんきんふところにした清九郎せいくろうただち上京じょうきょうしてこれ本山ほんざん献納けんのうした。

ある清九郎せいくろう上納じょうのう年貢米二俵ねんぐまいにひょうをこしらえてにわくと、そのよる盗賊とうぞく這入はいって持出もちだしかけた。ふとました清九郎せいくろう、その有様ありさまをみてこえをかけ、「それはおまえにあげるから、遠慮えんりょのうってかしやれ、もろうたといえばおとがめはないから、心配しんぱいせずともいしが、それでは手前てまえちにくかろう。明晩みょうばんくださるなら、ぎんにしてきましょう」という。盗賊とうぞくもたけだけしい、「そんならぎんにしておけ」というたままった。

翌朝よくあさ清九郎せいくろう早速さっそくそれを売払うりはらって、夜半やはんまでったが盗賊とうぞくない、「こんなことなら、こめのままにやってけばよかったに」と、おもうたけれども仕方しかたがない。

すると、四五日しごにちのち夜窃よるひそかにれい盗賊とうぞくしのんでた。「先日せんじつ約束やくそくぎん受取うけとろう」という。

清九郎せいくろうのいうようには、「あのあさきゅうったから、今日きょう相場そうばとはやすいけれど、堪忍かんにんしてってゆかれよ」、差出さしだぎん引取ひきとりて、何心なにごころなく清九郎せいくろうかおをみた。如来にょらい大悲だいひにうちあかされた触光柔軟そっこうにゅうなんのそのおもざし、莞爾かんじとした無邪気むじゃき姿すがたながめては、流石さすが盗賊とうぞくこころうごかさずにはられない。一旦いったんうばったぎん投出なげだして、きゅうってかえろうとする。

清九郎せいくろうあわてて引止ひきとめ、「折角せっかくわたしこころざし、どうしておまえにいらぬぞえ」。「だって貴様きさま正直しょうじきぎる。なんだか馬鹿ばかげて取栄とりはえせぬから、まあ、このぎんはよしにしよう」。「そういわずともってかしやれ」。「いや、どうしても此銀このぎんはとらぬ」。「それなら、おまえ善人ぜんにんじゃのう」、と、いわれて盗賊とうぞくだまってる。「善人ぜんにんじゃ、立派りっぱ善人ぜんにんじゃ、それほど立派りっぱ善人ぜんにんでありながら、くらがりにるとは可惜あたらごとじゃ、何故なぜ世間通用せけんつうよう善人ぜんにんにはなられぬぞ」。くといた盗賊とうぞくは、はじめて「われ」というものにがついた。悪事あくじまった始終しじゅうかたり、清九郎せいくろうまえ懺悔さんげしたから、清九郎せいくろう非常ひじょうよろこんで、そのぎん行末ゆくすえ世話せわをしてやった。

鉾立ほこたてとなり矢橋やばせという小村こむらがありて、そこに久六きゅうろくという若者わかものがあった。わるいことならなんでもやる、博奕ばくち大酒おおざけはいうまでもなく、喧嘩口論けんかこうろんといえばいつもほかよりさきる。ひとも対手あいてにせぬほどの無頼漢ぶらいかんで、その界隈かいわいのもてあましものである。

あるとき鉾立ほこたて若者わかものから清九郎せいくろうむすめまんが成人せいじんして、養子ようしもとめてうわさをきいて、「よしおれがその養子ようしになってやろう、どうかそのはなしをしてれ」というから、とても清九郎せいくろうにははいるまいとおもいながら、そのこと清九郎せいくろうかたると、清九郎せいくろう非常ひじょうよろこんで、「てさえくだされば、どのようひとでもくるしうない」と、せつ世話せわたのむから、とても末遂すえとぐるえんではないとおもいながら、双方そうほうのぞみまかせて、久六きゅうろくまんのむこにした。そのうわさいた人々ひとびとは、清九郎せいくろうどくおもわぬものはい。

清九郎せいくろう養子ようしまんのむことなった久六きゅうろく清九郎せいくろういえはいって、わずか一月ひとつきたぬに、まった人格じんかくかわってしまった。すべての悪事あくじめたばかりではなく、夫婦ふうふむつまじう、おや孝道こうどうつくして、何時いつにやら法義ほうぎはい行住坐臥ぎょうじゅうざが、つねに念仏ねんぶつ絶間たえまなく、御恩ごおんよろことなった。

あるとき清九郎せいくろう田地でんち一枚いちまい手次寺てつぎでら寄附きふしたいからとて、そのこと久六きゅうろく相談そうだんすると、久六きゅうろくのいうよう、「なんなりとも寄進きしんをなさるがよい、子孫しそん果報かほうがなければ、ついには他人たにんにわたる財宝ざいほういま仏恩師恩ぶっとんしおんむくゆるために、てら寄附きふしておけば、それがかえっていつまでも、我家わがいえじつでありましょう」。

享保四年三月二十六日きょうほうよねんさんがつにじゅうろくにち東本願寺ひがしほんがんじ大門建立だいもんこんりゅう新始しんししきがあった。そのときから清九郎せいくろうは、なんとかして寄進きしんをしたいのぞみはあったが、何分なにぶんにもまずしいうえで、こころるほどのことが出来できぬ。

或年あるとしむすめまんが、永々ながなが丹誠たんせい仕立したててくれた浅黄縞あさぎじま木綿もめん布子ぬのこて、よろこんで京都きょうと参詣さんけい翌朝よくあさ勤行ごんぎょうんで御庭おにわると、御門ごもん寄進所きしんしょ大門建立だいもんこんりゅう寄附きふ取扱とりあつかわれている。

清九郎せいくろうただちにそこへ立寄たちよって、おびいて布子ぬのこぎ、大門だいもん寄進きしんにとて差出さしだすから、役人達やくにんたちおどろいて、「こころざしはありがたいが、さむさもはげしい今日きょうこのごろ、ことに老体ろうたいうえで、しや寒気かんきおかされてはのためにもよろしくい、寄進きしんなに今日きょうかぎらぬ、またよい時節じせつにさしあげられよ」とさとされる。

清九郎せいくろうのいうには「幾度いくどおもさだめても、かわりやすきは人心ひとごころ、たとひそれがかわらぬにもせよ、明日あすいのちはたのみがたいうえなれば、なにとぞ御納おおさめくだされよ」と、無理むり布子ぬのこ差置さしおいて襦袢一枚じゅばんいちまい帰途きといた。

丹生谷にゅうだに同行二人どうぎょうふたり鉾立ほこたて同行二人どうぎょうふたり、これもおなじく京都きょうとまいって、昨日きのうおそく京都きょうとをたち、道中どうちゅう旅宿りょしゅくとまって、今日きょう歌姫うたひめ奈良なら西北せいほく)の村茶屋むらぢゃややすんでると、襦袢一枚じゅばんいちまいじいさんが、ふるいながら念仏ねんぶつをとなえ、こえをあげてきながらまえとおるから、あやしんでよくみると、日頃ひごろしたしい清九郎せいくろうである。この寒空さむぞらにその姿すがた何事なにごとぞ、さだめて盗賊とうぞくわれたであろう」といえば、はじめてがついた清九郎せいくろうじつはかくかくの次第しだいいま寒風かんぷうにしむにつけ、聖人しょうにん御苦労ごくろうおもわれて、とうとさのあまり、うれしなみだにかきくれて、つい失礼しつれいをしました」という。同行達どうぎょうたちともよろこび、一人ひとりたる袷羽織あわせばおりいで清九郎せいくろうにうちせ、ともにつれちて丹生谷にゅうだにむかった。

隣村となりむらまでると清九郎せいくろう鉾立ほこたて同行どうぎょうむかって、「折角せっかくむすめ丹誠たんせいして、こしらえてくれた布子ぬのこを、相談そうだんもせずに献上けんじょうしたから、さぞむすめしうおもうであろう、お前達まえたちは、丁度ちょうど道筋みちすじのことだから、一足先ひとあしさきって、むすめはらてぬよう、してくだされ」とたのむから、早速さっそく承知しょうちしてさきにゆき、まんにそのことかたると、まんのよろこび一方ひとかたでない、「私風情わたしふぜいにかけたものが、大門建立だいもんこんりゅう御用ごようにたったとはなんたるかたじけないことぞ」と、ちちにもしたこころざし。この寒空さむぞら衣服いふくいでもし寒気かんきおかされてはと、ちち古布子ふるぬのこ取出とりだして、いそあしむかえにた。丹生谷にゅうだにとなり市屋いちやというむらはずれで、ちちにあい、布子ぬのこせようとしたが、かぜたってつめたいから、自分じぶん衣服いふくいでちちせ、ちち古布子ふるぬのこ自分じぶんて、丹生谷にゅうだに宿坊しゅくぼう参詣さんけいし、うちつれて我家わがいえかえってた。

ある清九郎せいくろうほかからかえ途中とちゅうで、諸国行脚しょこくあんぎゃ修行者しゅぎょうじゃうた。みれば単衣ひとえやぶちて、ところどころ肌身はだみあらわれてる。きけばなが道中どうちゅうわずらって、いま一文いちもんたくわえもないとのこと。

清九郎せいくろう不愍ふびんでたまらない。おのれわすれてわがたる布子ぬのこぎ、これ修行者しゅぎょうじゃにうちせて、「わたし老人ろうじんでも達者たっしゃじゃ。あがりのそなたがそのようで、どうしてこの寒空さむぞらえられよう。遠慮えんりょなくてゆかれよ」という。修行者しゅぎょうじゃ喫驚びっくりして、「かほどまでの広大こうだい御情おなさけ、あなたはほとけでましますか」とて、なみだながしておがんだ。

襦袢一枚じゅばんいちまいかえって清九郎せいくろうむすめまんにいうようには、「いまみちくかくの次第しだい粗末そまつ布子ぬのこったらば、この清九郎せいくろうほとけじゃとよ。わずかのさむさをすくうてさえ、ひと斯程これほどよろこぶものを、まん、そなたもよろこんでくれ、大悲深重だいひじんじゅう親様おやさまは、この清九郎せいくろう三悪道さんまくどう苦患くげん御救おすくいくださるばかりでなく、ほとけしょうをひらかしてくださるのじゃ」と、おどあがってよろこんだ。

その姿すがたまん、どうしてよろこばずにられよう、「これほどに御引立おひきたてにあずかるのも、その旅人たびびとがあったため、そのあがりの旅人たびびとこそ、まことに今日きょう知識ちしきでありました」。

清九郎せいくろう信徳しんとく益々ますます評判ひょうばんになって、とき御法主台下ごほっすだいか御耳おみみはいり、「今度こんど上京じょうきょうしたならば、対面たいめんをするほどに」との御意ぎょいがあったから、そのつぎ参詣さんけいのとき、役人やくにんから清九郎せいくろうへその思召おぼしめしつたえた。

清九郎せいくろう大層たいそうよろこんで、そのままなん遠慮えんりょもなく、御召おめしのままに奥御殿おくごてん参上さんじょうした。

すると、なら役人衆やくにんしゅうとがめて、「御目見おめみえ作法さほうは、烏帽子えぼし素袍すおうけねばならぬ、うえうやま礼儀れいぎだから、その用意よういをしてこられよ」とのことに、無造作むぞうさ参上さんじょうした清九郎せいくろうおどろいて、「はい、はい。なんわきまえもない百姓ひゃくしょうで、つい御無礼ごぶれいいたしました。わたしはつねづね御本堂ごほんどう御本尊ごほんぞんはじめ、御真影ごしんねい御前おまえへも、この肩衣かたぎぬのままでまいりますから、いことと心得こころえて、まことに粗相そそういたしました」と、幾度いくどもおびをしてがりかけた。

かれこれしてときうつるから、そのむねおく申上もうしあげると、「平素へいそ服装ふくそうくるしうない」とのおおせであったから、清九郎せいくろうは、浅黄あさぎ古袷ふるあわせ肩衣かたぎぬをかけて、御前近おまえちかすすた。ありがたい御語おことばくだって、御盃おさかずきいただいたうえに、御剃刀おかみそり御免ごめんくだされ、浄元じょうげんという法名ほうみょうくだされた。

或人あるひと清九郎せいくろうむかって「いまみち磔刑たっけい罪人ざいにんたが、なんでもおそろしいやつじゃそうな。清九郎殿せいくろうどの、あんな大悪人だいあくにんでも、如来様にょらいさまをたのむとたすけてくださるかい」とたずねた。

清九郎せいくろうこたえていうよう、「たすかるとも、たすかるとも、この清九郎せいくろうでさえたすかるものを」と。

清九郎せいくろう五十歳ごじゅっさいころから六十五六ろくじゅうごろく時分じぶんまで、自分じぶんたずねて同行どうぎょうところへは、かなられいって、五六里ごろくり遠路えんろでも、その日帰ひがえりにしたものである。御所ごせまちに、細井戸屋何某ほそいどやなにがしというひとがあって、清九郎せいくろうたずねて、法義ほうぎをきかれたから、そののち清九郎せいくろうまた細井戸屋ほそいどやたずねた。おりしもなつ最中さいちゅうで、こと午近ひるちかいから、せめてはかたむくまでやすまれよと、主人しゅじんいてめるから、一間ひとますずんでるうちに、暑気しょき疲労ひろうでついねむってしまう。主人しゅじん勝手かって素麺そうめんやさせ、用意ようい出来できたからってると、清九郎せいくろうよこになって、平常へいじょうよう念仏ねんぶつとなえてる。召上めしあがれというても返事へんじがない。そばってみるに、よく寝入ねいってる。寝入ねいってはるが称名しょうみょうだけはすこしもかわらぬ。

こして素麺そうめんをすすめながら、念仏ねんぶつのことをたずねるに、すこしもおぼえがないとのことである。このすがたを主人しゅじん、ひとしおおどろきをたてて、家業かぎょう跡目あとめゆずりあたえ、自分じぶん姿すがたをかえて禅門ぜんもんとなり、しゃく教西きょうさいのって、程近ほどちか寺内村じないむら隠居いんきょし、いよいよ清九郎せいくろう御引立おひきたてこうむった。

鉾立ほこたてから半里はんりほど西にし山道やまみちをゆくと大石おおいしというむらがある。そこに道西どうさいというて、清九郎せいくろうしたしい同行どうぎょうがあった。あるとし道西どうさい報恩講ほうおんこうつとめるからとて、前以まえもっ清九郎せいくろう案内あんないしたが、生憎あいにくその大吹雪おおふぶきで、よるはいってもまだまない。

清九郎殿せいくろうどのも、これではとてもられまい、のこおおいが勤行ごんぎょうはじめようと、参詣さんけい同行達どうぎょうたち各々おのおの支度したくにとりかかると、そこへ蓑笠みのかさひとた。うえしたゆきだらけ。かされば清九郎せいくろうである。道西どうさい非常ひじょうおどろいて、「目口めくちけぬこの吹雪ふぶき、ことに老体ろうたい御身おんみが、よくもあの山坂やまさかえられしぞ、さだめて難義なんぎであったろう」、とさまざまにもてなせば、つどうた同行どうぎょうもいろいろにいたわる。

清九郎せいくろうれいべながら、「にし、ほねをくだきてもほうずべき御恩ごおんとは、かねがねうけたまわってりまするが、それほどでもおよばぬこと。何程なんほどりがつよくてもゆきじゃもの。たとひ蓑笠みのかさとおせばとて布子ぬのこがあり、布子ぬのことおしてもかわがある。よもにくまではとおるまい。これで御恩報謝ごおんほうしゃをさしていただくとは、なんたるかたじけないことぞ」と、よろこ姿すがたながめては、あつまった人々ひとびとった。

清九郎せいくろう領地りょうちに、いたってあじかきがあった。清九郎せいくろう毎年まいとしこれ本山ほんざん献上けんじょうする。そのかき竿さおは、けっしてほかのことにもちいない、あしにかけてはならぬというので、いつも屋根裏やねうらにつるしていた。

清九郎せいくろうくなったあとで、人々ひとびとそのこころざしかんじ、その竿さおはこおさめ、由来ゆらいしるして、なが後世こうせいつたえたということである。

むすめまんは、ふとやまいとこいて、おこたりなく療治りょうじをしたが、次第しだいおもくなって、たよりすくなになった。いよいよ臨終りんじゅうちかづいたときちちおっととにたすけられ、仏壇ぶつだん本尊ほんぞん拝礼はいれいして、おっと久六きゅうろくにいうようには、「なにおもいのこすことはありませぬ。ただ次第しだいとしをとらるる父上ちちうえ、これからはさぞ御不自由ごふじゆうでありましょう、どうぞ、わたしにかわって孝行こうこうしてくだされ。けがれはてたるこのまんも、いまこそ女人成仏にょにんじょうぶつ証果しょうかひらかしていただきます」と、仏前ぶつぜんひざまずいて、一心不乱いっしんふらん念仏ねんぶつしながら、二十六歳にじゅうろくさい一期いちごとしてついにむなしきひととなった。

女房にょうぼうわかれた昔時むかしは、悲嘆ひたんくるうた清九郎せいくろうむすめわかれた今日きょうは、かなしみのいろのうちに、ひとしほよろこびねんした。

まんがくなってからは、一家いっかおとこばかりでもあり、久六きゅうろくもまた若盛わかざかりだから、後妻ごさいむかえたらばとすすめるひともあり、清九郎殿せいくろうどのよめならばとて富貴ふうきひとから申込もうしこむものもおおかったが、久六きゅうろくは、すこしも後妻ごさいめとこころなく、ただひとえおや大事だいじにかしづいた。

清九郎せいくろう段々だんだんとしをとったから、家事かじ久六きゅうろくまかせて、自分じぶん丹生谷にゅうだに山陰やまかげ隠居いんきょした。妙好人伝みょうこうにんでん著者ちょしゃ仰誓師ごうせいし寛延二年かんえんにねん春三月はるさんがつ朋友ほうゆう義詮師ぎせんしとつれだちて、わざわざこの清九郎せいくろう隠宅いんたくたずねられたことがあるが、そのいえわずかに二間ふたまばかり、莚二三枚むしろにさんまいいて、茶碗二ちゃわんふたみっつ、釜一かまひとつのほかなにもなき侘住居わびずまいもそのあまりなのにおどろかれたとのことである。斯様かよう乞食小屋同様こじきごやどうようところへ、土地とち貴人きじんや、諸方しょほう大徳方だいとくがたたずねられるのだから、御所ごせまち小寺屋こでらや禅門ぜんもんどくおもうて、清九郎せいくろう家普請いえぶしんをしようとおもいたち、近在きんざい同行どうぎょうはなしをした。

すると「清九郎殿せいくろうどのことならば」というので、たちま沢山たくさんかねあつまったから、早速さっそく清九郎せいくろうところおもむいて、ちかいうちに普請ふしんりかかるからというと、清九郎せいくろう一方ひとかたならずおどろいて「これはおもいもよらぬこと、どうかそのはやめてください」というてどうしても承知しょうちしてくれぬから、禅門ぜんもんおおいにこまって、折角せっかく同行衆どうぎょうしゅう寄附きふしてくれた普請ふしんこころざしし、おまえ承知しょうちせられぬと、わたし私欲しよくたようにうたがわれてもこまるから」といえば、清九郎せいくろう迷惑めいわくして、「まことに御志おこころざしはありがたいが、余命よめいすくなうえ、ことに住家すみかのわびしいのは、結構けっこうなれ浄土じょうどしたうようにもなりまする。折角せっかく御志おこころざしだから、どうかそれで、宿坊しゅくぼう因光寺いんこうじ仏具ぶつぐ寄附きふしてくだされたら、ありがたうぞんじます」という。

そこで禅門ぜんもんもそのこころざしかんじて、清九郎せいくろう望通のぞみどおりにした。

今井いまいまち紅屋べにやといえば、当時とうじ名代なだい商家しょうかである。そこに一人ひとり少女しょうじょがあった。七八歳しちはっさいのころから仏法ぶっぽうしたしんで、御恩ごおんよろこんでたが、家柄いえがらでもあり、容儀ようぎほかすぐれて、おんなみちにもたっしてるから十五六歳じゅうごろくさいころには、しきりにえんのぞものがあった。しかるに、出離しゅつりもとむる少女しょうじょには、浮世うきよきずなのぞまない、あけくれ浄土じょうどおもあまり、いっそ自害じがいしてなりともいそいでまいりたいものと、心窃こころひそかにおもうてところがある、おなじ今井いまい順明寺じゅんみょうじ本堂ほんどうで、平素へいそ知合しりあい清九郎せいくろううた。

清九郎せいくろうさとしていうようには、「あま御恩ごおんとうとさに、此世このよいとうこころから、おりれては、くびしめてなりとも、淵川ふちかわげてなりとも、はやく往生おうじょうしたいとおもうこころのるものじゃが、かならかならはやまってはなりませぬぞ。きなば念仏ねんぶつとなえなん、なば浄土じょうどまいりなんと、信心相続しんじんそうぞくうえより、如来にょらい照護しょうごよろこんで、さだまれる定命じょうみょうたれよ」と。これをいた少女しょうじょ非常ひじょうよろこんで、両親りょうしんねがうてかみをおろし、しゃく貞寿ていじゅあらため、終生しゅうせい御恩ごおんとうとんで、ついに往生おうじょうげたとのことである。

越中えっちゅう茗荷原みょうがはら妙覚寺みょうかくじ住職じゅうしょく玉譚師ぎょくたんしが、寛延元年かんえんがんねんはるくにかえときこころひそかにおもわれるよう、「国元くにもとには真宗しんしゅう御流おんりゅうむものがおおく、法談会合ほうだんかいごう数多かずおおいことではあるが、大概たいがいいた聴聞ちょうもんで、まことこころ奥底おくそこから、愚痴ぐちかえって本願ほんがんあおぐものは、千人せんにん一人ひとりか、万人まんにん一人ひとり、ただいたずらにくち御慈悲おじひくよりも、いっそ清九郎せいくろうのような信者しんじゃわせたならかえっておどろきをてることであろう」。こうおもいたって、清九郎せいくろうさそうて、はるばる越中えっちゅうくだられた。

七十ななじゅうちか清九郎せいくろう百里ひゃくりみちあゆむうち、一度いちど草臥くたびれたということをいわぬ。玉譚師ぎょくたんしがいたわって、「今日きょうさだめて草臥くたびれたであろう」というと「いや、くたびれませぬ」とこたえる。「だって、起臥きが不自由ふじゆうそうで、びっこをひかるるではないか」といえば、「はい、身体からだはくたびれても、こころいささかもつかれませぬ」「それは何故なぜか」とたずぬると、「はい、かたち七十ななじゅう老体ろうたいじゃが、こころはいつも十八じゅうはちで」。

おなじ越中えっちゅうくだみちで、かわわたらねばならぬことがあった。まだ春浅はるあさときだから、玉譚師ぎょくたんしどくおもうて、「わか自分じぶんでさえ、この川水かわみずつめたいのはいやである。まして老体ろうたい御身おんみは、さぞつらいことであろう」といわれた。

すると清九郎せいくろうのいうよう、「けっして大儀たいぎとはおもいませぬ。し、このようにさむときかわ十度じゅうどわたらねば、たすけてやらぬという御誓おちかいならばあさましい我身わがみは、ふたつかみっわたったら、もう大儀たいぎになって、のこむっななつはわたらずして、後世ごせ仕損しそんずるであろうが、河一かわひとつもわたらずに、たすけてくださる御恩ごおんおもえば、このかわいつつやむっつぐらい、ものかずではありませぬ」と。

越中えっちゅう同行どうぎょう清九郎せいくろう無我むがよろこびをて、一方ひとかたならず引立ひきたてられた。帰国きこくとき玉譚師ぎょくたんし同道どうどうして、飛騨国ひだのくに真宗寺しんしゅうじ参詣さんけいする。恰度ちょうどそのとき摂津せっつ小曾根おぞね浄光寺じょうこうじ泰巖師たいがんし説教せっきょうがあったが、満座まんざになってから、泰巖師たいがんしもまた同道どうどうして上方かみがたへのぼられた。長旅ながたびのことだから泰巖師たいがんし清九郎せいくろう老体ろうたいおもいやって、うまやとうてのせようとせられた。

清九郎せいくろう非常ひじょうおどろいて、なんというても辞退じたいする。「なぜらぬか」といえば、「御坊様ごぼうさまのとりたまううまには、勿体もったいなくてれませぬ」という。なんすすめても、どうしてもらない。

そこで泰巖師たいがんし清九郎せいくろうにいわるるには、「これほどいうても勿体もったいなくてれぬという。それほど勿体もったいないならば、御身おんみ何故なぜ大願だいがんふねった」。

清九郎せいくろういわく、「如来様にょらいさまが、無理むりせておしまいなすったから」。泰巖師たいがんしいわく、「いま左様さようじゃ」と。

そこで清九郎せいくろうむことをうまった。つぎ宿しゅくいたとき粉糠五升こぬかごしょうばかりをもとめて馬士まごあたえ「どうかうまわしてください」というて、幾度いくどうまでてわかれたそうである。

寛延二年かんえんにねんなつ仰誓師ごうせいし京都きょうと清九郎せいくろうわれたとき、「其許そこもと去年きょねん越中えっちゅうくだられたそうだが、くさきざきで、さだめて有難ありがた信者しんじゃわれたろう」とたずねると、清九郎せいくろうのいうようには、「有難ありがたかったのはわたしで」と。この一言ひとことまことにみょうである。我等われらは、ただ他人たにんのまめやかにしんずるをてうれしがり、よろこぶばかりにて、我身わがみうえには心附こころづかざるのである。けれど清九郎せいくろうは、となりたからをかぞえず、なににつけても自身じしん往生おうじょうをよろこぶこと、まことにありがたきことである。

同年七月どうねんしちがつはじごろ原谷村はらたにむら祐安ゆうあんという同行どうぎょうもと仏事ぶつじがあって、清九郎せいくろう参詣さんけいをしたが、その留守るす盗賊とうぞくて、むしろしたれてあった銀札七匁ぎんさつななもんめぬすんでいった。人々ひとびとがそのはなしをきいてどくおもいそのむね清九郎せいくろうにいうた。

すると清九郎せいくろうのいうようには、「ぬすみするほどのものならばよくよく不自由ふじゆうであろう。わたしのようないえて、なにるものがなかったから、さぞ残念ざんねんであったろうが、しかし、菜種なたねった代金だいきん銀札十五匁ぎんさつじゅうごもんめほどのなかで、八匁はちもんめ春以来はるいらい洗濯料せんたくりょうにはらい、のこ七匁ななもんめっていったが、いつもならばこの七匁ななもんめさえかったのに、ちょうどよいときで、折角せっかくたのにむなしくさせず、わずかでもとらるるもののあったのは、うれしうぞんじまする」と。これをいて、人々ひとびときょうをさまし、「ぬすまれてうれしいとは何事なにごとぞ」。

清九郎せいくろういわく、「わたしおな凡夫ぼんぶぬすみしかねぬものなれども、いま御慈悲おじひよりぬすごころもおこらず、かえってぬすまるるにしてくだされたことは、どうしてよろこばずにられましょう」。

或歳あるとし霜月二十七日しもつきにじゅうしちにちよる清九郎せいくろう自分じぶん隠居家いんきょやで、むこ久六きゅうろくともにお通夜つやをした。破壁やぶれかべりて寒風かんぷうやいばのようににこたえ、外面そと一面いちめん吹雪ふぶきである。

清九郎せいくろう、つらつらおもうよう、御開山聖人ごかいさんしょうにんゆきなかいしまくらしたまい、法蔵菩薩ほうぞうぼさつはたとひもろもろ苦毒くどくなかとどるとも、我行わがぎょう精進しょうじんしてしのびてついいじ、とおおせられ、これら千万せんまん御苦労ごくろうも、みなこの清九郎一人せいくろうひとりのためであったものを。御恩知ごおんしらずのうえも、すこしは我身わがみ引受ひきうけてよろこばしていただこうとひそかに布子ぬのこぎすてて丸裸まるはだかになり、おもてほうへたちて、もったゆきなかして、御開山聖人ごかいさんしょうにん斯様かようであらせられたかと、ふるわせて称名しょうみょうしてた。久六きゅうろくがそれをききつけてあやしみながらると、おや清九郎せいくろうゆきなかにねころんでて、しかまるはだかである。

おどろいて布子ぬのこ打着うちきせてしつれ、仔細しさいたずぬると、かくかくとの物語ものがたり久六きゅうろく今更いまさらように、おや厚信こうしん恥入はじいりて、そのよる共々ともどもよろこばれたとのことある。

清九郎せいくろう寛延二年かんえんにねんふゆ、ふと中風ちゅうぶうかかって、歩行ほこう出来できず、起臥きが自由じゆうにならずして、次第しだいつかれのいろしてる。よく三年さんねんなつかみをおろして、病体びょうたいながら入道にゅうどう姿すがたになったことをよろこんで、ますます称名しょうみょうはげんでた。人々ひとびと見舞みまいて、浄元殿じょうげんどの浄元殿じょうげんどの法名ほうみょうぶと、清九郎せいくろうあたまをふって「いや、わたしはただ入道にゅうどうで」という。法然上人ほうねんしょうにんが「尼入道あまにゅうどう無智むちともがら」とおおせられ、蓮如上人れんにょしょうにんが「一文不知いちもんふち尼入道あまにゅうどう」とのたまう御言おことばなどをおもうてのことであろう。

愈々いよいよ病気びょうきつのって、もうながくはあるまいというとき見舞みまい同行達どうぎょうたちが、「清九郎殿せいくろうどのほどの御信者ごしんじゃだから、臨終りんじゅうにはさだめて不思議ふしぎなことがあるであろうとて、もっぱ世間せけんうわさしてる」とはなしあうてるのを、清九郎せいくろうきいてうようには、「皆様みなさま御存知ごぞんじとおり、罪悪生死ざいあくしょうじ清九郎せいくろうが、このたび如来にょらいおんはからいで、浄土じょうど往生おうじょうげさせていただきます。これにぎたる不思議ふしぎはありますまい」。

くて清九郎せいくろうは、くち余言よげんをあらわさず、もっぱ称名しょうみょうゆることなかったが、呼吸こきゅうみじかく、くるしげにゆるから、かたわらに久六きゅうろくが、「いきざしもくるしそうだからこころよろこばれよ」というと合点がてんしたようで、しばらくは念仏ねんぶつこえやすめてたが、いつとなくまた称名しょうみょうして絶間たえまがない。寛延三年庚午かんえんさんねんかのえうま八月四日午刻はちがつよっかうまのこくつい往生おうじょう素懐そかいげられた行年七十四歳ぎょうねんななじゅうよんさいである。