世紀の決闘のウソとホント!武蔵は遅刻しなかった!

浮世絵 貞房「宮本武蔵」
浮世絵 貞房「宮本武蔵」

いきなりですが、地図アプリで「巌流島」を検索すると、「船島(ふなしま)」という名前が出てきます。

「あれ?」と思いますよね。実は、昔も今も「巌流島」という名前の島は、正式には存在しません。現在の正式な名前は「山口県大文字彦島字船島」です。

それなのに、なぜ「巌流島」がこんなに有名なのでしょうか?

それは、宮本武蔵の小説を書いた人たちが、正式名の「船島」ではなく、かっこいい響きの「巌流島」という名前をたくさん使ったからです。その結果、世間では「船島」よりも「巌流島」という名前が広まってしまいました。

1. 巌流島という島はなかった!?

巌流島という名前がついた理由

当時の人たちに「武蔵と小次郎が決闘した島はどこですか?」と聞いたら、きっと「船島」と答えたはずです。いきなり別名で呼ばれることはありません。

この島で最も有名な出来事は、武蔵と小次郎の決闘です。となると、この「巌流」という名前は、決闘に関係する人物の流派から来ていると考えられます。

答えは、佐々木小次郎に関係しています。小次郎の流派が「巌流」だったことから、ここで命を落とした小次郎の剣術の名を取って「巌流島」と呼ばれるようになった、と考えられています。

2. 武蔵の「遅刻」と「櫂」はフィクション

宮本武蔵は、日本の剣士の中で最も有名で、その剣術も「天下一」と呼ばれるほどの腕前でした。

そんな武蔵の有名な逸話として、「巌流島ではわざと遅刻して小次郎をイライラさせ、船の櫂(かい)を削った木刀で小次郎を倒した」という話があります。

櫂で戦ったのはウソ?

もちろん、櫂(船を漕ぐためのオール)で戦うのは無理があります。実際は、木でできた太刀(木刀)を使ったとされています。

この「櫂で倒した」という話は、武蔵の伝記を元に小説を書いた作家の吉川英治さんが、物語を面白くするために作り出したフィクションでした。

最大のフィクションは「遅刻」

櫂の話だけでなく、もう一つの有名なウソが「武蔵の遅刻」です。

武蔵が遅刻したという話も、後世に書かれた伝記によって作られ、それを吉川英治さんの小説が広めたことで、まるで事実のように世間に伝わってしまいました。

しかし、証拠を見てみると、事実は違います。

  • 当時の記録(武士の日記):決闘に立ち会った武士の日記『沼田家記』には、武蔵の弟子たちが小次郎より先に島に隠れていて、武蔵に敗れた小次郎を弟子たちが殺した、と書かれています。
  • 武蔵の養子の記録:武蔵の死後、養子である伊織が建てた石碑『小倉碑文』には、「両雄、同時に相会す(二人は同時に会った)」と書かれています。

これらの記録から、武蔵が小次郎を待たせたという話はなかったことがわかります。日記には、定刻通りに決闘が始まったとあります。

武蔵が遅刻できなかった理由

当時の武蔵は、剣術の腕を買ってもらって大名に仕える「仕官(しかん)」を目指していました。立会人が見ている中でわざと遅刻をするような失礼な行為は、仕官を目指す武芸者として絶対にありえないからです。

3. 小次郎は18歳の天才ではなかった!

浮世絵 国貞「月本武者之助 坂東簑助」 落款印章「五渡亭国貞画」上演年月日(文政13(1830))興行名『太刀作武蔵利物 たちづくりむさしがだんびら』
浮世絵 国貞「月本武者之助 坂東簑助」 落款印章「五渡亭国貞画」上演年月日(文政13(1830))興行名『太刀作武蔵利物 たちづくりむさしがだんびら』
ドラマでは、決闘時の武蔵(29歳)は中年、小次郎は若き天才(18歳)として描かれることが多いです。しかし、この年齢差もフィクションです。
  • 武蔵の伝記『二天記』には小次郎が18歳と書かれていますが、これも後から作られた話です。
  • 実際は、小次郎が剣術を習った師匠の年齢などを考えると、小次郎は武蔵よりも年上だった可能性が非常に高いです。

もし本当に小次郎が18歳という若さだったら、武士の立会人がわざわざ入るような大物とは見なされなかったでしょう。小次郎は、若くても50歳を超えていたのではないか、と考えられています。