職人尽絵詞. 第1軸

江戸時代、庶民がそば、鮨と同じく外食として食べた屋台のたべものだった。

今の時代は天ぷらだけをお店で食べるとなるとしっかりとしたお店でカウンターの前で料理人が1つ1つ目の前で揚げてくれる料理としての高級なイメージから、定食屋で頼む天ぷら定食のような普段でも食べられるような幅広い料理になっています。

しかし、江戸の町に天ぷらの屋台が出ている時代は女性や堅気な人は食べないジャンクな食事であり、立ち食いの料理なので人が担げるサイズの簡単な設備で売っていました。

江戸初期の天ぷらは何でも油を使った料理を天ぷらと呼んでいましたが、寛政の頃になると魚やエビなどの魚介類を揚げたものを天ぷらと呼び、野菜などを揚げたものを揚げ物やごま揚げと呼ぶようになっていきます。

料金は魚の串で1つ4文程度で、時代によって変わりますが今の100円しない価格だったようです。

庶民が食べるものとして様々な工夫がされていく中で、料亭としても食べられるようになりますが、上流階級や商人たちだけが食べるお店だったことも有り、幕府の政策によっての浮き沈みで潰れることも多々ありました。

天ぷらの名前の諸説あり


天麩羅(てんぷら)という名前はなかなかに変わった名前です。漢字で書くと更に変な感じがしますが、この名前は諸説があります。

オランダの「教会」を意味するテンプルが語源になっているもの。
ポルトガルの「料理する」という意味のtempero(テンポウラ)
スペイン語のカトリックのお祭りの名前でtemplo(テンプロ)という新じゃが獣肉を魚類を食べることから来たものなど諸説がある。

変わったもので山東京伝が考えたという話もある。これは京伝の弟の京山が書いた「蜘蛛の糸巻」の中で書かれているが本には天ぷらが始まったのは1781年(天明初年)に大阪から江戸にやって来て初めたもので名付け親が山東京伝であると書かれている。

しかしながら、同じ1781年1月(安永10年)の芝居狂言「昔唄今物語」で天ぷらの名前が出てくるので山東京伝が考えた可能性はかなり低い。

※安永10年は10年で終わって天明に年号は変わっている。