戦国時代の武士といえば、槍や刀を持って戦う「戦士」でした。
しかし、平和な江戸時代になると、彼らの仕事はガラリと変わります。

剣をペンに持ち替えた彼らは、書類作成や警備を行う「公務員(サラリーマン)」になっていたのです。

今回は、現代とは真逆の「偉い人ほど忙しく、下っ端ほど暇だった」という、江戸の武士の仕事事情について解説します。

この記事の要点

  • 武士の仕事は「戦い」から「事務・警備」へ変化した
  • エリート(老中)は早朝から陳情対応で超激務
  • 無職の武士(小普請)は、暇すぎて「内職」で食いつないだ

豊原周延 「千代田之御表」 「正月元日諸侯登城御玄関前之図」(1897)
江戸城への登城風景

トップエリート「老中」は超激務!

幕府の最高権力者である「老中(ろうじゅう)」や「若年寄(わかどしより)」。
彼らは関ヶ原の戦い以前から徳川家に仕える、選ばれし譜代大名たちです。

さぞ優雅な生活をしているかと思いきや、実は目が回るような忙しさでした。

「10時出社」でも朝はゆっくりできない

彼らの勤務時間は、だいたい朝10時頃に江戸城へ登城し、午後2時頃に帰るというものでした。

「たった4時間勤務? 楽勝じゃん!」
と思うかもしれませんが、それは表向きの時間にすぎません。

実は登城前の早朝から、自宅(役宅)には様々な藩の担当者が押し寄せます。
「うちの藩の要望を通してください」「役職をください」といった陳情や接待の対応(朝駆け)に追われていたのです。

さらに、城内での会議や、将軍への報告、緊急事態への対応など、常に気を張っていなければならない重圧がありました。

中間管理職たちの仕事事情

老中ほどではありませんが、ある程度の石高(給料)をもらう旗本たちも忙しい日々を送っていました。

彼らは「寺社奉行」「勘定奉行」「町奉行」といった実務部隊のリーダーです。
月に5〜6回は城へ登城して会議を行い、それ以外の日は役宅で膨大な書類仕事を処理していました。

特に、1000石クラスのエリート旗本に人気だったのが「長崎奉行」です。
海外貿易の窓口である長崎は、実入り(役得)も多く、出世コースの花形だったと言われています。

暇すぎる下級武士たちのリアル

一方で、ドラマに出てくるような下級武士(御家人・徒士)はどうだったのでしょうか。

運良く「勘定所」や「町奉行所」に就職できた人は、下級官吏や警備員として働けました。
しかし、江戸の武士全員にポストがあったわけではありません。

仕事がない「小普請組(こぶしんぐみ)」

役職に就けなかった武士たちは、「小普請組(こぶしんぐみ)」という枠組みに入れられました。

彼らは言うなれば「無職の待機児童」ならぬ「待機武士」
仕事はありませんが、武士としてのメンツがあるため、家を潰すわけにはいきません。

幕府から最低限の禄(給料)をもらいながら、「いつか役職が空かないかなあ」と自宅待機をする日々を送っていました。

運良く仕事が回ってきても、「数日に1回、門番として立つだけ」というような、暇を持て余す勤務内容も多かったようです。

食べていけない! 副業(内職)に励む侍たち

仕事がなく、給料も安い。
そんな下級武士たちが生きるために選んだ道、それが「副業(内職)」でした。

  • 傘張り・提灯張り: ドラマでおなじみの内職。
  • 園芸(植木屋): 朝顔や鈴虫を育てて売る。
  • 軽工業: 下駄の鼻緒作りや、竹細工など。

プライドを捨てて内職に励む真面目な武士もいれば、そうでない人もいました。

有名なのが、勝海舟の父親・勝小吉(かつこきち)です。
彼は無役の貧乏旗本でしたが、内職をするどころか、毎日喧嘩や賭博、お酒に明け暮れるという破天荒な生活を送っていました。

「武士は食わねど高楊枝」とは言いますが、現実はかなりシビアだったようですね。

歌川国輝 「衣喰住之内家職幼絵解之図」 「第五 植木屋・左官」

💡 やさしい江戸案内の雑学メモ

「3000石」が運命の分かれ道?

無職(無役)の武士でも、身分によって扱いが違いました。

3000石以上の高給取りなら「寄合(よりあい)」と呼ばれ、ある程度名誉ある扱いを受けました。
しかし、それ以下の場合は「小普請」と呼ばれ、十把一絡げの「その他大勢」扱いでした。

いつの時代も、持たざる者には厳しい社会だったようです。

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参考文献