戦国時代の武士といえば、槍や刀を持って戦う「戦士」でした。
しかし、平和な江戸時代になると、彼らの仕事はガラリと変わります。
剣をペンに持ち替えた彼らは、書類作成や警備を行う「公務員(サラリーマン)」になっていたのです。
今回は、現代とは真逆の「偉い人ほど忙しく、下っ端ほど暇だった」という、江戸の武士の仕事事情について解説します。
この記事の要点
- 武士の仕事は「戦い」から「事務・警備」へ変化した
- エリート(老中)は早朝から陳情対応で超激務
- 無職の武士(小普請)は、暇すぎて「内職」で食いつないだ
トップエリート「老中」は超激務!
幕府の最高権力者である「老中(ろうじゅう)」や「若年寄(わかどしより)」。
彼らは関ヶ原の戦い以前から徳川家に仕える、選ばれし譜代大名たちです。
さぞ優雅な生活をしているかと思いきや、実は目が回るような忙しさでした。
「10時出社」でも朝はゆっくりできない
彼らの勤務時間は、だいたい朝10時頃に江戸城へ登城し、午後2時頃に帰るというものでした。
「たった4時間勤務? 楽勝じゃん!」
と思うかもしれませんが、それは表向きの時間にすぎません。
実は登城前の早朝から、自宅(役宅)には様々な藩の担当者が押し寄せます。
「うちの藩の要望を通してください」「役職をください」といった陳情や接待の対応(朝駆け)に追われていたのです。
さらに、城内での会議や、将軍への報告、緊急事態への対応など、常に気を張っていなければならない重圧がありました。
中間管理職たちの仕事事情
老中ほどではありませんが、ある程度の石高(給料)をもらう旗本たちも忙しい日々を送っていました。
彼らは「寺社奉行」「勘定奉行」「町奉行」といった実務部隊のリーダーです。
月に5〜6回は城へ登城して会議を行い、それ以外の日は役宅で膨大な書類仕事を処理していました。
特に、1000石クラスのエリート旗本に人気だったのが「長崎奉行」です。
海外貿易の窓口である長崎は、実入り(役得)も多く、出世コースの花形だったと言われています。
暇すぎる下級武士たちのリアル
一方で、ドラマに出てくるような下級武士(御家人・徒士)はどうだったのでしょうか。
運良く「勘定所」や「町奉行所」に就職できた人は、下級官吏や警備員として働けました。
しかし、江戸の武士全員にポストがあったわけではありません。
仕事がない「小普請組(こぶしんぐみ)」
役職に就けなかった武士たちは、「小普請組(こぶしんぐみ)」という枠組みに入れられました。
彼らは言うなれば「無職の待機児童」ならぬ「待機武士」。
仕事はありませんが、武士としてのメンツがあるため、家を潰すわけにはいきません。
幕府から最低限の禄(給料)をもらいながら、「いつか役職が空かないかなあ」と自宅待機をする日々を送っていました。
運良く仕事が回ってきても、「数日に1回、門番として立つだけ」というような、暇を持て余す勤務内容も多かったようです。
食べていけない! 副業(内職)に励む侍たち
仕事がなく、給料も安い。
そんな下級武士たちが生きるために選んだ道、それが「副業(内職)」でした。
- 傘張り・提灯張り: ドラマでおなじみの内職。
- 園芸(植木屋): 朝顔や鈴虫を育てて売る。
- 軽工業: 下駄の鼻緒作りや、竹細工など。
プライドを捨てて内職に励む真面目な武士もいれば、そうでない人もいました。
有名なのが、勝海舟の父親・勝小吉(かつこきち)です。
彼は無役の貧乏旗本でしたが、内職をするどころか、毎日喧嘩や賭博、お酒に明け暮れるという破天荒な生活を送っていました。
「武士は食わねど高楊枝」とは言いますが、現実はかなりシビアだったようですね。

💡 やさしい江戸案内の雑学メモ
「3000石」が運命の分かれ道?
無職(無役)の武士でも、身分によって扱いが違いました。
3000石以上の高給取りなら「寄合(よりあい)」と呼ばれ、ある程度名誉ある扱いを受けました。
しかし、それ以下の場合は「小普請」と呼ばれ、十把一絡げの「その他大勢」扱いでした。
いつの時代も、持たざる者には厳しい社会だったようです。
あわせて読みたい武士の懐事情
正規の武士でさえ生活が苦しい中、非正規雇用の「足軽」たちはどう生きていたのか?江戸の人材派遣システムと経済事情を解説します。
武士が内職で作った朝顔や鈴虫を、町で売り歩いていたのが彼ら「棒手振り」でした。武士と商人の意外な共生関係が見えてきます。
参考文献







