葛飾北斎の『富嶽百景』三編には、「七寶山下老人小笠」と名乗る人物が書いた序文があります。
三編の序文で特に注目したいのが、河村岷雪の『百富士』を「画の正」、北斎の『富嶽百景』を「画の奇」と比べているところです。ここでいう「奇」は、単に「奇妙」「変わっている」という悪い意味ではなく、型にはまらない独創性や、思いもよらない表現を意味しています。
さらに、北斎が一つの富士を紙と墨の中で生き生きと動かし、あらゆる方向から描き出したことを称賛し、その驚くべき創作力を不老長寿の仙薬にまで結びつけています。まず原文と現代語訳で全体の流れをつかみ、そのあと登場人物や古い言葉、文章に込められた意味を見ていきましょう。

『富嶽百景』三編の序文
君錫子の百富士は畫の正なるものなり。北齋翁の富嶽百景ハ、畫の奇なる者なり。
翁、雄健之筆を以て、一富峯をよく楮墨の間に鼓舞す。八面向背、寫し得て、きはめて妙絶なり。
聞、翁の齢、今九十を踰えて、視聴なほ少年に比すこと、豈嘗て仙丹を此名山に求得たる歟。
三篇刻成に及て、東壁主人五蝶子、序を予に需め、一閲三歎して之を記。
七寶山下老人小笠
序文の現代語訳
君錫、すなわち河村岷雪の『百富士』は、絵として正統的な作品です。それに対して北斎翁の『富嶽百景』は、型にはまらない独創的な作品です。
北斎翁は力強い筆によって、ただ一つの富士の峰を、紙と墨の中で生き生きと躍動させています。前後左右、さまざまな方向から見た富士の姿を描き分け、その表現はまことに見事です。
聞くところによれば、北斎翁は今や九十歳を越えているというのに、目や耳はまだ少年にも比べられるほどだといいます。もしかすると、かつてこの名山・富士で不老長寿の仙薬でも手に入れたのでしょうか。
三編の版木が完成したとき、東壁主人五蝶子から私に序文を書いてほしいとの依頼がありました。そこで作品を一度見たところ、何度も感嘆せずにはいられず、この序文を記しました。
七寶山下老人小笠
江戸時代の序文は誰が書いた?
江戸時代の本では、作者本人だけでなく、同じ時代に活動していた学者、僧、戯作者、俳人など、作品や作者と関わりのある文化人が序文を寄せることがありました。
現代の書籍でいえば、序文や推薦文、帯に載る紹介文を合わせたような役割に、少し近いところがあります。作品を紹介するとともに、「この作品にはどのような価値があるのか」「作者をどう評価しているのか」を読者に伝える文章でもありました。
ただし、江戸時代の文化人は本名ではなく雅号や別号などで署名することも多く、現在では誰を指しているのか分からない場合があります。さらに、版本には書肆の屋号や堂号に関係する名乗りも登場します。
三編の序文には「七寶山下老人小笠」「東壁主人五蝶子」という、現在では人物像をつかみにくい名前が登場します。分からない人物を無理に特定せず、確認できる範囲から見ていきます。
序文に登場する人物
七寶山下老人小笠|三編の序文を書いた人物
『富嶽百景』三編の序文を書いた人物は、末尾に「七寶山下老人小笠」と署名しています。
現在のところ、その実名や詳しい経歴は確実には分かっていません。名古屋側の人物とする研究もありますが、代表作や活動歴まで明らかになっている人物ではありません。
そのため、ここでは無理に人物を特定せず、『富嶽百景』三編の序文を書いた「七寶山下老人小笠」と名乗る人物として扱います。
河村岷雪|北斎以前に『百富士』を描いた絵師
序文の最初に登場する「君錫子」は、江戸時代中期の絵師・河村岷雪のことです。「君錫」は岷雪が用いた名の一つです。
岷雪は、北斎より前に富士をさまざまな場所から描いた『百富士』を残しました。この本は版を重ね、後世の富士山を描く絵師にも影響を与えました。
北斎も『百富士』の構図を参考にしながら、それをそのまま写すのではなく、人物を加えたり、見る範囲を大胆に切り取ったりして、新しい構図へ作り変えています。
そのため三編の序文で『百富士』と『富嶽百景』が並べられているのは偶然ではありません。北斎より前の代表的な富士画集と、北斎がそこから発展させた富士画集を比較していると考えると分かりやすいでしょう。
葛飾北斎|「画の奇」と評された絵師
葛飾北斎(1760~1849)は、『冨嶽三十六景』『北斎漫画』などで知られる江戸時代後期の浮世絵師です。
三編の序文では、岷雪の『百富士』を「画の正」とする一方、北斎の『富嶽百景』を「画の奇」と評しています。
北斎は、富士を正面から美しく描くだけではありません。建物や橋、網、木々、人々の暮らしなどを使い、ときには富士を小さくしたり、一部を隠したりしながら、意外な場所や角度から見える富士を描きました。そうした型にはまらない発想が、この序文では「奇」という一字にまとめられています。
東壁主人五蝶子|序文を依頼した人物
「東壁主人五蝶子」は、七寶山下老人小笠に三編の序文を依頼した人物として登場します。
「東壁」は、『富嶽百景』三編の出版に関わった名古屋の書肆・永楽屋東四郎の堂号「東壁堂」と結びつきます。そのため、出版元側の人物と考えるのが自然ですが、「五蝶子」が具体的に誰を指すのかまでは確実に分かっていません。
原文に出てくる難しい言葉・古い言葉
三編の序文には、「画の正」「画の奇」「楮墨」「八面向背」など、現在そのままでは意味を取りにくい言葉が使われています。文章を理解するために重要なものをまとめます。
君錫子
河村岷雪を指します。「君錫」は岷雪の名の一つで、「子」は人物に付ける敬称です。
画の正
「正」は、正統的、基本に忠実、整った表現といった意味です。ここでは河村岷雪の『百富士』の画風を表しています。
画の奇
「奇」は、普通とは違うこと、思いもよらないことを意味します。ここでは悪い意味の「奇妙」ではなく、型にはまらない独創性や、意外性のある表現を指しています。
雄健之筆
力強く、勢いのある筆づかいのことです。「雄健」には、たくましく力強いという意味があります。
一富峯
一つの富士の峰という意味です。富士山は一つしかありませんが、北斎はその一つの山から数多くの異なる景色を生み出しています。
楮墨
「楮」は和紙の原料となる木、「墨」は墨のことです。そこから「楮墨」は紙と墨、さらに絵や文章を書く世界を表す言葉として使われます。
鼓舞
現在では「人を励ます」という意味で使うことが多い言葉ですが、もともとは鼓を打って舞わせるという意味をもちます。
ここでは、一つの動かない富士を、北斎が紙と墨の中でまるで生きて動いているかのように描き出すことを表していると考えられます。
八面向背
「八面」はあらゆる方向、「向背」はこちらを向くことと背を向けることです。ここでは、富士を一方向だけではなく、前後左右のさまざまな方向から描き分けることを表しています。
妙絶
このうえなく巧みで、すばらしいことです。「きはめて妙絶なり」は、「まことに見事である」という強い称賛です。
視聴
ここでは、目で見る力と耳で聞く力、つまり視力と聴力を指します。
仙丹
仙人が用いるとされた、不老長寿をもたらす薬のことです。九十歳を越えても若者のように目や耳がよいという北斎を、仙人のような人物として冗談めかして称賛しています。
三篇刻成
三編を印刷するための版木を彫り終えたことを表します。「刻成」は、版木の彫刻が完成することです。
序を予に需む
「私に序文を書くよう求めた」という意味です。「予」は自分、「需」は求めることを表します。
一閲三歎
一度目を通しただけで、何度も感嘆したという意味です。「三」は必ずしも正確に三回という意味ではなく、繰り返し感心したことを強調する表現です。
原文の解説
河村岷雪の『百富士』は「正」、北斎は「奇」
君錫子の百富士は畫の正なるものなり。
北齋翁の富嶽百景ハ、畫の奇なる者なり。
三編の序文は、河村岷雪の『百富士』と北斎の『富嶽百景』を比べるところから始まります。
岷雪の『百富士』は「画の正」。つまり、富士を各地から眺め、その姿を比較的素直に描いていく、正統的で整った富士画として評価されています。
それに対して北斎は「画の奇」です。
ここでの「奇」は、「おかしな絵」「奇妙な絵」という悪い評価ではありません。普通の描き方では思いつかない構図や、見る人を驚かせる独創的な発想を表しています。
北斎は岷雪の『百富士』から学びながらも、同じ構図をそのまま繰り返したわけではありません。人物や道具を大きく手前に置いたり、橋や窓のようなものを通して富士を見せたりすることで、もとの発想をまったく別の景色へ作り変えています。
その違いを序文の作者は、わずか二文字の「正」と「奇」で表したのでしょう。
一つの富士を、紙と墨の中で動かす
翁、雄健之筆を以て、
一富峯をよく楮墨の間に鼓舞す。
富士山そのものは動きません。しかし北斎は、その一つの富士を「楮墨」、つまり紙と墨の中で「鼓舞する」とされています。
「鼓舞」は、もともと鼓を打って舞わせるという言葉です。そこで、動かない富士を、北斎の力強い筆によって紙の上で生き生きと動かすというイメージが生まれます。
富士そのものが動くのではなく、見る方向、人々の動き、天候、道具、建物などを変えることで、一つの富士がまるで次々と姿を変えているように見える。『富嶽百景』の特徴をよく表した言葉です。
あらゆる方向から富士を描く
八面向背、寫し得て、きはめて妙絶なり。
「八面」はあらゆる方向、「向背」はこちらを向いた姿と背を向けた姿を意味します。
もちろん富士山そのものに人間のような顔や背中があるわけではありません。ここでは、一つの方向から見た決まった富士ではなく、あらゆる場所や角度からその姿を捉えたという意味です。
初編では「真景」、二編では「八面玲瓏」「遠近異其望」と、富士のさまざまな見え方が語られていました。三編でも「あらゆる方向から見る富士」が北斎の大きな特徴として評価されています。
北斎は富士で「不老長寿の薬」を手に入れた?
聞、翁の齢、今九十を踰て、視聴なほ少年に比すこと、
豈嘗て仙丹を此名山に求得たる歟。
ここでは急に、北斎の年齢の話になります。
「九十を踰て」は九十歳を越えたということ、「視聴なほ少年に比す」は、目や耳がなお少年にも比べられるほどしっかりしているという意味です。
そこで作者は、「もしかすると北斎は、かつて富士山で仙丹、不老長寿の薬でも手に入れたのだろうか」と冗談を言います。
もちろん、本当に仙薬を手に入れたという話ではありません。高齢になっても衰えず絵を描き続ける北斎の生命力と創作力を、仙人のようだと称賛しているのです。
「九十歳を越えた」は本当? 三編の刊行年には謎がある
この「今九十を踰て」という一文は、『富嶽百景』三編の刊行時期を考えるうえでも興味深い部分です。
北斎は1760年生まれなので、初編が刊行された1834年、二編が刊行された1835年には、まだ70代半ばでした。そのため、三編も同じころに刊行されたとすると「九十歳を越えた」という記述とは合いません。
実は三編には、初編や二編のような明確な刊行年が記されておらず、刊行された時期については諸説があります。版木そのものは1835年ごろまでに作られていたとする研究がある一方、実際の刊行は1840年代だったと考える説もあります。
北斎は1849年に亡くなっており、その年には数え年で九十歳になります。この序文の「九十」という記述から三編を晩年の刊行と考える説もありますが、刊行時期は現在も一つに確定しているわけではありません。
作品を一度見ただけで何度も感嘆した
三篇刻成に及て、東壁主人五蝶子、序を予に需め、
一閲三歎して之を記。
「三篇刻成」は、三編の版木が彫り上がったことを表します。そのとき東壁主人五蝶子から、七寶山下老人小笠へ序文を書くよう依頼がありました。
そして作品を見た作者は「一閲三歎」したといいます。
文字どおりなら「一度見て三度感嘆する」ですが、ここで大切なのは回数ではありません。一度目を通しただけで、何度もため息が出るほど感心したという強い称賛です。
序文の冒頭では北斎の作品を「画の奇」と呼び、最後には実際に作品を見て何度も感嘆した、と結びます。「奇」は決して批判ではなく、作者自身を驚かせるほどの独創性を褒めた言葉だったことが、最後の「一閲三歎」からも分かります。
三編の序文は北斎の「独創性」を称賛する
初編では、富士が山々から抜きん出るように北斎も絵師の中から抜きん出ていると語られました。二編では、一つの富士が時間、距離、季節、天候によって「百変」し、それを北斎が「百景」として描いたことが称賛されています。
そして三編では、その北斎の描き方そのものを「画の奇」と表現します。
河村岷雪の『百富士』という先行作品から学びながら、北斎はそれをそのまま繰り返さず、見る方向や構図、人々の暮らしを組み合わせて、新しい富士の姿へ変えていきました。
一つしかない富士から、誰も見たことのないような景色を次々と生み出す。その型にはまらない発想こそが、三編の序文で「奇」と呼ばれた北斎の魅力だったのでしょう。
『富嶽百景』三編の原本と全作品を見る
『富嶽百景』三編の原本画像や収録作品一覧は、「浮世絵夜話」でまとめて見ることができます。





