・1642年(寛永19)若衆歌舞伎をする男の女装を禁止
女性の歌舞伎が禁止され、そのあと成人していない男の子が女装をして歌舞伎をするようになったことで同時に風紀を乱すような行為も発生するようになった。
・1648年(慶安1年)はさまざまな風紀の取締がされた、吉原以外の遊女や勧進相撲、賭博などを禁止した。
『衆道の儀に付、むたい成事を申掛、若衆ぐるひ仕間敷事』
とざっくりといえば男色の禁止ということを幕府が法令をだした。
・1652年(承応1)若衆歌舞伎の禁止
衆道として体を売る成人をしていない男性が増えてきたことから金される。
この時代は徳川家光が将軍であり、女性よりも男性が好きだったと言われる将軍であることから国のトップの趣味である衆道を禁止したのはなかなかに面白い状態ではある。
さて、この時代の男色というものがどのようなものだったのかをもう少し紹介しておこう。
男色は平安時代の「源氏物語」でもそう思わせる表現がれて、室町時代、戦国時代になると武将と小姓の間でさまざまな男色の記録がある。段々と貴族から庶民へと男色の文化が降りてきて江戸初期には大きく盛り上がってくる。
江戸時代の男性は、元服をして大人の扱いをされるようになると前髪を剃ることで時代劇のような男性のちょんまげ姿になる。元服する前の少年は前髪があり、若衆と呼ばれ男性と女性から性の対象とされることがあった。
そんな若衆は「若衆歌舞伎」として踊るという見世物が流行っており、美しい若衆の人気は凄まじく、そんな人気の若衆を抱えてパトロンのようになる人々もあらわれる。そうなると若衆と繋がりたい人たちの間をとりもつような存在として、「陰間茶屋(かげまちゃや)」が誕生する。
※陰間茶屋は上方(京都・大坂)では「若衆茶屋、若衆宿」などと呼ばれていた。
陰間茶屋は料理屋や居酒屋ようなもので、そこへ若衆を呼んで売春を行っていた。
今で言えばラブホテルから相手を呼んでもらって、そこで楽しむという形式が近いのかもしれない。
陰間茶屋の人気は武士から庶民まで老若男女問わずに利用されるようになっていたことから、街の風紀の乱れを正すべく、男色の禁止を幕府は禁止したのだった。
その4年後の1652年には若衆歌舞伎をさせ、そしてその少年たちを金銭で苦界のような真似をさせてはいけないというお触れでているところから、1648年に出された法令はさほど効果がなかったようである。
苦界とは遊女の境遇のことを指して、苦しみの絶えない環境のことを指している。ざっくりといえば少年を遊女のようなことをさせるなというお触れだった。
このあともにような法令が出されて入るがあまり効果もなく、100年後の1764年(明和1年)には陰間が50名以上おり、お店が12軒、陰間茶屋24軒と多いとは言えないが平賀源内が陰間茶屋や男色案内書を出す程度にはお店を利用する人たちが存在していたようである。
陰間茶屋の利用者は老若男女と書いたが、農民や漁師といった庶民から女犯(にょぼん)を禁止されていた坊主、女性たちも御殿女中や後家といった女性も陰間を買っていた。