日本人が鯨を食べだした歴史は古く、縄文時代の貝塚から鯨の骨が見つかっています。そのことからも鯨は古来より食べられていたことがわかっています。
今でこそ、あまり食べられていませんが、今でも小型の鯨は決められた時期に捕鯨され、鯨が取れると港で解体され一部がその場で販売されます。
漁港での鯨の解体は珍しいこともあり盛況だとのこと
鯨を食べるなら和歌山県太地町で鯨料理もたべることができます。
現在は絶滅危惧種のセミクジラといった大型の鯨は捕鯨されていませんが、江戸時代には捕鯨されていました。
江戸時代のの漁獲
昔の鯨はどのように捕獲していたのでしょうか。
縄文時代まで戻ると、船で沖に出て捕獲するのはむりなために、たまに海岸に流されて海に戻れなくなった鯨を食べていたのではないかと考えられています。
そのため鯨が嵐などで座礁や入り江に居残ってしまったものを取っていたのでしょう。
それから平安時代ごろには万葉集に『勇魚(いさな)』という名前で登場し、船の技術も格段と上がっているために捕獲されるようになってきたのではないかと考えられています。
室町時代の料理の本には鯨料理についての記述があることからある程度捕獲できるようになっていることがうかがえます。
江戸時代には銛などでの捕獲ではなく網を使った網取り式漁法で捕鯨を行うようになり組織的な捕鯨がおこなわれるようになました。
江戸時代には年400頭近くの捕鯨されており、鯨組という組織が誕生します。
鯨組とは、鯨を捕獲するために沖で鯨を探す組、鯨を取る組、鯨の解体など色々な特殊な技能を持った人々の集まりでした。
鯨一匹捕れば七浦潤う
当時鯨が1頭とれると
『鯨一匹捕れば七浦潤う』
という言葉が出来るほどに鯨は富をもたらします。
そのため鯨は漁師に神様や海からの授かり物のように扱われていました。
さて、莫大な富を生む鯨を捕るために鯨組はだんだんと拡張されていき最も大きな集団で2000人近くの集団にもなっていきます。
鯨を取るのに2000人はさすがに多いいだろうと思うかもしれませんが、鯨1頭で4千両近くの儲けが生まれたといわれています。
そのため、鯨組のなかには漁師たちの飲む酒を造る集団といった存在もありました。
組織が大きくなるということは、その集団専用の船大工や漁師が食べるものを準備する集団など色々な存在が生まれてきます。
昔は今と違って、車もなければパソコンもない時代なので鯨を捕る漁師たちの回利のことをしてくれる集団が増えるのは仕方がないことでした。
パソコンがまだない時代の鉱山も鉱山技師より事務の人間のほうが多いほどだったので海も山も集団のでき方はあまりかわらないのかもしれません。
当時の鯨は余すことなく使用できる貴重な資源でした。
肉は食べられ、髭は扇子や釣り竿、からくり人形のぜんまいなど高級品として使用され、プラスチックが普及されるまではセミクジラの髭を代用されていました。
皮は塩漬けにして、鯨汁として料理されました。
昔は鯨のすべてを使いつくしていた
当時はすべてを使いつくしていました。もちろん骨も
鯨の骨は村の女たちが細かく砕き肥料として用いました。
鯨であますことなく使用されていました。
そんな鯨漁は、四国や和歌山の海だけではなく、伊豆半島付近でも行われるようになっていきます。
しかし、江戸の末期になると鯨の捕獲量は段々と減少していきます。
大きな理由として日本の海の周りでもヨーロッパの捕鯨船が鯨の油を目当てに捕鯨を行うようになったため
江戸時代、大きな船を作ることが禁止されていたため海に出ていける距離にも限界があり、鯨が段々沖合に来なくなったため
などの理由が挙げられ、江戸時代が終わり明治になるとヨーロッパと同じように大きな船を用いて鯨の漁獲は遠洋にでるようになります。
2000人以上の規模になった鯨組もそこまでの人数が必要しなくなり、解散していきます。
そして現在は、鯨の保護の世界的な流れによって庶民が食べることが無くなり、捕鯨を行っている地域や大阪のハリハリ鍋といったごく限られた場所でしか食べることが出来なくなりました。
戦国時代のお話
四国最強の戦国武将として名高い長宗我部元親は豊臣秀吉に浦戸湾に迷い込んだ鯨を丸々1頭献上しています。
解体せずに、大阪に持ち込んだために大阪で大きな話題になったといわれています。