世紀の決闘!!巌流島などなく、武蔵は遅れてくるという不作法はなかった。

浮世絵 貞房「宮本武蔵」
浮世絵 貞房「宮本武蔵」

いきなりですが、googleマップで巌流島と検索すると山口県の船島という名前が出てきます。

あれ?

不思議に思うかもしれませんが昔も今も巌流島という島はありませんでした。
現在の正式名称は『山口県大文字彦島字船島』という名前です。

とはいえ、巌流島という名前は船島よりも圧倒的に有名です。理由としては武蔵の小説には船島などという名前ではなく多くに巌流島という名前を使用していることで世間の認知は船島ではなく、巌流島という認識になっています。

たぶん、正しい名称を言っても誰も理解はされず、巌流島といえば誰しもが武蔵と小次郎の決戦の島として名前があがるのではないでしょうか。

そうすると
気になる疑問は巌流島となぜ呼ばれるようになったのかということです。船島という名前があるのですから当時の人たちに武蔵と小次郎が決闘した島はどこですかと聞けば船島と答えて、間違っても巌流島とは答えなかったはずです。

別名で呼ばれるようなエピソードがなければいきなり別名が付いたりはしません。

この島での有名な出来事は武蔵と小次郎の決闘だけあので、そうなると巌流という名前に関係のある人物がいてその人物の由来の名前が付いたと考えるのがだとうではないでしょうか。

答えは、小次郎に関係しています。

小次郎の流派もしくはが『巌流』であることから、ここで死んだ小次郎の剣術の流派からその名前がついたと考えられています。

巌流島の決闘の中に混ざるフィクション


武蔵といえば、日本の剣士の中でもっとも有名な人物であることは間違いありません。

その剣術も天下一ともてはやされるほどの腕前、日本の歴史上でランキングをつければ上位に入る人物でしょう。そんな武蔵の逸話として巌流島では遅刻をして小次郎を待たせ、船の櫂で小次郎を倒すという何ともすごい話があります。

もちろん、櫂ではさすがに武器するには厳しい、実際の所は木刃を使用したとされています。武蔵の小説を書いた吉川英治さんが宮本武蔵の小説を書く際の元にした武蔵の伝記「二天記」を使いました。

「二天記」は「武公伝」をもととして1776年頃に書かれた本とされています。ちなみに武蔵が死んだのが1645年頃といわれているので100年以上お時を経て書かれた本であることから様々な虚実入り混じった話があります。

今のようにそれ程、書籍がでまわらない時代に人々の逸話などを参考にして作られたために嘘か誠かわからない話がいくつも混じっています。

櫂で武蔵が小次郎を倒したというのはフィクション。
とはいえ、武蔵が小次郎を倒したことは事実です。

櫂の話は一流の作家が考えた物語を面白くするための要素でしたが、そうするとほかにもフィクションが混ざっているのではと思った貴方、素晴らしいです。

もう一つの大きなフィクション、それが有名な話である武蔵の遅刻です。

武蔵が遅刻をしたという話は後世に作られた逸話でした。こちらも後世に書かれた伝記によって作られ、吉川英治さんがその伝記を基に宮本武蔵を書いたことでフィクションが事実のように広がっていきました。

実際のところは武蔵と小次郎の決闘を立ち会った武士の日記『沼田家記』には武蔵の弟子たちが小次郎よりも先に来て島に潜んでおり、武蔵に敗れた小次郎を弟子たちが殺したと書かれています。

当の武蔵も、武蔵の養子であった伊織が武蔵死後、1654年に建てた『小倉碑文』には「両雄、同時に相会す」となっていることからも武蔵が小次郎を待たせたという話はありませんでした。


『沼田家記』では定刻に決闘を始めたとあるので、武蔵は本当に遅刻はしなかったのでしょう。


武蔵の遅刻はあり得ない理由

立ち会ったの武士の日記からもちこくがなかったことはわかりますが、もう一つ遅刻できない理由を挙げるなら、武蔵が決闘をする理由とも重なります。


武蔵は日本全国を行脚しながら決闘お繰り返していました。その数60回以上ともいわれています。そして気づけば29歳という歳に、現代から考えるとまだまだ若者という扱いの年齢ではありますが、戦国の世の当時から考えればかなりいい年齢で若者ではないでしょう。

そのこともあって巌流島の戦いは武蔵最後の決闘といわれています。
決闘を何時からやらなくなったかは諸説があるため断言はしづらいのですが、他流試合はこれ以降は行っていないといわれています。

そんな武蔵の目的といえば

仕官でした。

若いころには剣術を鍛えて、その腕を買ってもらって大名に仕官することがこの当時の武芸者の目的だったのです。武蔵もその例にもれず、武芸の腕を磨いたのですが残念ながら仕官には至りませんでした。

それ以降の武蔵は書、絵などといった学問の勉学に励んでいきます。

そんな仕官を目指す武芸者が立会人を入れている中で遅れてくるというのはなかなか考えられない話です。

浮世絵 国貞「月本武者之助 坂東簑助」 落款印章「五渡亭国貞画」上演年月日(文政13(1830))興行名『太刀作武蔵利物 たちづくりむさしがだんびら』
浮世絵 国貞「月本武者之助 坂東簑助」 落款印章「五渡亭国貞画」上演年月日(文政13(1830))興行名『太刀作武蔵利物 たちづくりむさしがだんびら』

武芸者の二人、武蔵29歳、小次郎18歳?

巌流島の時に29歳という年齢になっていた武蔵ですが、ドラマでは確かに中年といった描写がされることが多いです。

それまでに様々な人生の体験をして、若き天才・小次郎との一騎打ちとなるのが世の中の知っている武蔵です。

若き天才小次郎は何歳なのかいえば後世に書かれた武蔵の伝記「二天記」では18歳とのこと、若い若すぎる天才と今の時代ならいえるかもしれませんが、当時を考えるといい大人なのかもしれません。

とはいえ11歳の年齢差はすごいとしか言いようがないとなるところですが、実際ところこの話もフィクションです

巌流島にある小次郎のブロンズ像は18歳の小次郎が作られていますが、小次郎が師事した人物の年齢を考えるとどうしても年齢は武蔵よりも上であることは確かのようだ。

わざわざ18歳の若者と武蔵の決闘に武士の立ち合い人が入ることを考えても小次郎もそれなりに知られている人物ではないだろうか。

ちなみに決闘した18歳という年齢は小次郎が巌流という流派を作った年齢という話もあり、若くても50歳は超えていたのではないかと考えられている。