戦国時代というのは室町幕府崩壊寸前になったために、幕府の命令を聞かずに各地の武将たちが領土を求めて多くの戦を行いました。そんな時代に最も活躍する羽目になったのが農民からかき集められた。彼らの多くは跡取りになれなかった人達が徴兵されました。

足軽は戦の前日に賭けなどをして盛り上がりそのまま戦場で戦っていたそうです。負けた人の中には武器とふんどしだけでみぐるみ剥がされた状態で戦を行っていたという話もあります。

さて、そんな彼らは戦の中で活躍をして足軽大将にでもなれば00~300石の禄(給料)が貰えるようになった者もいます。そんな中で足軽からもっとも成功したのが豊臣秀吉です。

彼ほど成功した足軽はいないでしょう。

 

そんな足軽ですが、戦をしていた時代は仕事もあり、生活をすることができていましたが、江戸の世になると大坂冬の陣以降はほぼ戦はありませんでした。

そうなると生活に困窮するため殆どの人が農民に戻りました。徳川の属していた者のなかには同心や与力、他の大名なら門番など雑用として使われることもありました。

雑用や門番でも下級武士なので給料をもらいました。江戸中期になると様々な武士のルールが作造られ多くの出費がかかるようになり、また経済と給料の額がリンクしていませんでした。そのため物の値段が上がっているのに給料は据え置きなことが原因で年収にして30~40万円程度と生きていくにもままならない額でした。

 

派遣される武士たちの誕生

お金のない足軽たちはだんだんと派遣奉公人と言う仕事をしていくようになります。前に書いたように武家にはさまざまなルールがあります。

例えば200石の禄を貰っている武士は家臣を5名雇っていないといけないというルールがあります。

しかし、200石は現代の価値で5~600万ぐらいになるので、とても常時人を雇う余裕などありません。200石程度の武士が利用したのが派遣武士です。

見栄を張る必要があるときに、口入屋(派遣会社)に期間限定で派遣してもらう武士を雇います。なんとも苦肉の策を使いました。

町人では刀を差すわけにはいかないので武士を派遣してもらいます。そういったところに派遣される人たちの多くは足軽の家系の人々です。彼らを雇うには1両から5両前後の金額で雇うことができました。

江戸時代も260年も続いたのでお金の価値がかなり違り変動していますが目安として金1両が大体、10~13万円程度になります。小判の価値は江戸時代後半になればなるほど下がっていきます。

江戸時代が後半になるほど、経済と武士の禄がかみ合わなくなっていきます。そのため武士の生活が苦しくなっていきます。それでも見栄もプライドを捨てることはできず、奉公人を雇っているようまわりに見せる必要があったためにお金も困りながらも派遣武士を利用しています。そのために武士は見栄のために困窮した生活をしていたものが多くいました。

江戸時代は武士に比べて商人は確実にお金を持つようになります。農民も米や粟稗(あわひえ)などを作らず、染料などに使われる藍を作るようになります。そうすると農民もお金を持つ人たちが現れた。

足軽から武士になった人たちも実は武士をやめて農民に戻っていたほうが生活はもっと楽だったかもしれません。