町奉行といえば、テレビではサクラの入れ墨の遠山の金さんや大岡忠相(おおおか ただすけ)が有名になっている。そんな町奉行の仕事は本来町の中をぶらぶらと歩き回っている暇など無いほどに忙しかった。

豊原国周 町奉行大岡 助高屋高助 1879-1
豊原国周 町奉行大岡 助高屋高助 1879

町奉行のシステムがある程度完成したのは家光の時代で、江戸の町に北町奉行所と南町奉行所があり2人しかなることが出来なかった。初期は大名がなっていたがすぐに旗本の中から選ばれるようになる。

北町奉行所と南町奉行所は管轄区域が分割されていたわけではなく所在の位置としてそう呼ばれていただけで正式名称ではない。

町奉行の部下として、北と南で与力25騎づつの合計50騎の与力がいた。(のちに46騎になる)同心と呼ばれる下級役人が北と南に100人が所属していた。

町奉行の管轄は江戸の町の町人たちが暮らしている範囲に限定されており、武士や寺に関与する権限は持っていなかった。

町奉行の仕事は時代劇で有名な犯罪者にお裁きを行うだけに思われるが、実際のところその仕事はほんの一部にしか過ぎなかった。町奉行の権限は現代の警察、消防、裁判、検事、知事といった民間に関わることのほぼ全てを担っていた。

江戸の町にたった2人しかいない町奉行の仕事は多忙を極めていた。職場である町奉行所と町奉行の家が同じ敷地にあったために通勤もなく、仕事詰めな環境も原因だったのかもしれないが在任中に過労死する人もいた。

行政としての仕事として大岡忠相は江戸の防火体制は強化として町火消の制度をつくり「いろは四八組」を編成したり、幕府が江戸に設置した無料の医療施設であった小石川養生所を設置したりしている。

町奉行の訴状が山のように来るためにやってもやってもおわらないじょうたいであり、訴訟や請願の処理は月番制になっていてその月の町奉行所が門を開いて訴訟や請願を受け付けていた。月番でない町奉行は事務作業を行っていた。

何十万人も住む町で裁判をできる人が1人しかないので一日に3,40件の訴状を処理しても終わらない状況だった。

月番の町奉行の仕事は与力や同心に仕事の指示を行い、朝10時頃に城に登城して町触れの原案の作成や老中からの呼び出しや報告、会議などを行っていた。

午後2時頃に町奉行所にもどってから吟味方(ぎんみかた)が行った取り調べを精査して追放、流刑、たたきなどの罪状を告げていたが、死罪になるような案件になると将軍まで許可をとったあとに検使が見届ける中で処刑が行われた。

この仕事も2時間ほどで午後4時頃には終わり、日が暮れる頃に町奉行所の門が閉じられる。といっても町民の行政に関わる仕事を一手に引き受けている町奉行は門を締めた後も仕事が続けることになる。


奉行所に休みなし

月番になると訴訟や請願の処理や城への登城、終わりの見えない仕事をしていましたが、1ヶ月毎の月番で北町奉行と南町奉行で交互に訴訟などの仕事をしていました。

月番でなく非番になる奉行所の仕事は、前の月に持ち込まれた訴状についての調査などの業務を行います。門は閉じられているので新たに訴状が来ることはありませんが、それでも前の月に解決できないほどの訴状が来ているので業務に励むことになります。

手が空いても与力や同心は月番の奉行所の手伝いに向かい、月番の奉行所への業務連絡など非番であっても休みはない。

あとは非番であっても月番であっても評定所の会議が月に3回行われるので北町奉行と南町奉行が顔を合わせて武士が関わらう案件や寺社奉行、勘定奉行の仕事に関わる案件など町奉行の権限を超えるような案件には老中も出席することもあった。

今は、2つの奉行を北町奉行と南町奉行と呼ぶが本来はこのような区分はないので当時は御奉行様と呼び。奉行所は「御役所」「御番所」と呼ばれていた。