江戸に出てきた奉公人は白米を食べられるのがうれしくて白米ばかり食べたそうです。そんな人たちは江戸ではやりの病にかかっていました。

白米ばかり食べてたいして野菜を食べないのでビタミンが足りなくなり脚気になる人々が多くいました。

 

小林清親作品名 「教育いろは談語」 「い」「医者のふ養生」1897
小林清親作品名 「教育いろは談語」 「い」「医者のふ養生」1897

 

なぜ江戸の病気かと言えば脚気は江戸を離れると治る人が多くいたためです。江戸に住む人々は商人や武士たちですが、下っ端の人たちである丁稚(住み込みで働く若者)や奉公人の食事は白米のご飯とお味噌汁と小皿の漬物を食べて働いていた人々が多くいました。

そんな食生活なためにお米の炭水化物は多く取れますが、精米されたお米には多くの栄養素が抜け落ちてしまい、それが原因でビタミン不足になっていました。

 

脚気てなに?

 

脚気はビタミンの不足が原因であり、脚気になると心不全によって足のむくみ、神経障害によって足のしびれが起き、心臓機能の低下と不全など発生して死亡するケースがあります。

日本の歴史をさかのぼると古い記録では720年に作られた歴史書『日本書紀』にも脚気の話が載っています。徳川綱吉が将軍となる時期には米を精米して食べるという習慣が江戸に広がっていきます。

白米を食べることが流行りだすと脚気になる人々が増え「江戸患い」と呼ばれるようになりました。

脚気の死亡は1923年の26,796人が最も多く、1950年以降になりやっと1千人を下回りました。日本はこの後の偏食やインスタント食品ブームなどで脚気になる人がいました。

 

江戸を離れるとなぜ治るのか?

 

江戸は100万都市と呼ばれるほど当時の世界から見てもあまりに人口の多い都市でした。

世界的にも1万以上人が住んでいる都市でもかなり珍しい時代です。

それほど人口がいる都市では食料をどのように賄うかという大きな問題がありました。多くは江戸の周辺の農村からの食糧自給ですが生産者と消費者の比率がアンバランスなこともあり、野菜はあまり安い物ではありません。そうなると丁稚などに食べさせる食べ物は保存ができて、野菜より安く、野菜と違い長期保存が効いて全国から集まるお米が主食になります。

そうなると栄養は偏り病気になる率は確実に上がり、脚気待ったなしです。

しかし、江戸を一歩出れば需要と供給のバランスは正常なところが多いこと、白米に玄米が混ざっていたりと白米だけを食べること自体が珍しくなり、今まで足りなかった栄養素を取ることができて脚気が治るそうです。