江戸時代では不義密通をすれば死罪、10両盗んだら死罪というお触れが出されていた時代です。不義密通とは早い話が不倫や浮気で今のように芸能人がテレビで謝罪で済んでいいますが江戸時代なら死罪となるわけです。

10両盗めば死罪も江戸の260年以上続く長い歳月の間には1両の価値はかなり変動しましたが、だいたい現代の価格で1両が10万円として10両では100万円ぐらいでしょうか。

なので江戸時代では100万円盗めば死罪ということでした。

これは江戸時代の警察と同じ役目である与力や同心の数が300名前後であり、その下の岡っ引きが500名程度なので合わせても1000名ほどで人数で江戸100万以上の人口の犯罪を取り締まっていたので色々な限界がありました。

さらに言えば、この2つの罰則も抜け道があったり、10両盗んでも9両盗んだことにして死罪にしないといった話あったりします。10両の話は後世の創作と混ざっているのでどこまで真実かはわかりませんが。

歌川国貞 「松葉屋文三」
歌川国貞 「松葉屋文三」


さて、10両盗んだら死罪ですがスリの場合は死罪ではありませんでした。

1度目捕まると入れ墨がいれられ敲き刑が行われ放免されます。

この刑罰にスリをした金額に左右されませんでした。たとえ1両だろうが100両だとしても同じ刑罰が行われていたようです。

※敲き刑とは罪人の肩や腰、背中を殴打刷る刑罰で代替50回ほど行われます。

2度目、1度目とおなじで入れ墨がいれられ敲き刑が行われ放免されます。

3度目でも入れ墨と敲き刑のあと放免です。

4度目になるさすがに死刑になるのですが、江戸追放といった刑罰が行われることもありました。260年以上続き江戸の幕府の政策の差で処罰が大きく異なり、スリが横行した時代はすぐに死刑といったこともあるようでした。


スリと盗人はかなり昔から区別がされていました。理由はわかりませんが一説にはスリをされるような被害者が悪いという価値観があっともいわれています。

そんなスリですが江戸の初期から中期までは巾着切りといわれる指の間に刃物を仕込んで懐や袂(たもと)を切り巾着を盗んでいく手口が主流となっていました。

しかし、あまりに横行するために幕府がスリについて厳しい罰則をすると御定書だします。そのためか御定書に書かれていない様々な手口のスリが横行するようになりました。


スリは弟子入りするもの


スリを行う人々は基本的に所属する集団があり髷の形で所属している集団が分けられていたといわれています。スリをする人は子供の内から師匠のもとへ弟子入りして修行をして15歳ぐらいの元服することから駆け出しとしてスリの家業を始めます。

職人のような形態をしていますが、20歳前半はもっとも技術が成熟して30歳には引退するといわれていました。実際のところ30歳を過ぎたスリは数が少なく引退ではなく、繰り返し捕まって30歳を来る前には死刑になっているといった状態だったのかもしれません。

ちなみにどの集団にも属していない流れのスリは地元のスリの集団に捕まると袋叩きされたり、指をおられたりもしたようです。

おわりに盗人でも死罪にならなかったこともある。


盗人と呼ばれる武家屋敷や商家に入る泥棒で有名な鼠小僧は武家屋敷に入って1度目に捕まったとき初犯であると嘘をつきは入れ墨を入れて追放の刑で死罪となっていません。

追放された江戸にまた戻ってきて盗みを働き2度目に失敗して死罪となっています。この件からもわかるように10両盗んだからといって死罪に絶対になるといったわけではないようでした。